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「万寿寺通」 は「まんじゅうじどおり」 ッて呼ぶ 〜 知らんけど⁉️

$${\text{万寿寺通}}$$(まんじゅじどおり)は、西暦794 (延暦13)年の 平安京開設 の際に開かれた「 樋口ひぐち小路こうじにあたります。


〓 〓 〓 🥷 万寿まんじゅ 」ッて 〜 「饅頭まんじゅう」と ちゃいまっせェ- ⁉️ 〓 〓 〓


⚫︎ 生まれた時からながく住んでいる人には、慣れ親しんでいる「饅頭まんじゅう」の言葉 の影響からなのか 〜 知らんけど⁉️

🗣 ≪ 「まんじゅじどおり」 とはばず、

🗣 ≪≪ 「まんじゅ う じどおり」と んでいます。

⚫︎ 「路地」を「ろーじ」と呼ぶように、幼い頃からの習慣で、少しも疑問に思わずに、長く生きてきた原住民げんじゅうみん⁉️ は 、美味おいしくて縁起えんぎの良い⁉️「饅頭まんじゅう寺」のようにんでいますけど 💦


✍️なお、このサイトでの説明には、俗称の「まんじゅ$${\text{う}}$$じどおり」ではなく、学術的な呼称「まんじゅじどおり」の言葉で説明しています。


万寿寺まんじゅじ( 萬壽禅寺まんじゅぜんじ ) 〜 現在も営業されている 仏具屋・畳屋さん 〜 木屋町通きやまちどおり から 黒門通くろもんどおり までの万寿寺通まんじゅじどおり に残っている全ての 万寿寺まんじゅじとおめいの「町名ちょうめい表示板ひょうじばん」🤳


🗣≪<< $${\text{まんじゅ}}$$$${\LARGE\text{う}}$$$${\text{じどおり}}$$


       〓 〓 〓 🥷 京都の「とおめい」 って⁉️ 〓 〓 〓


⛩️ 京都市の現在の「通り名」は、明治時代に入って「京都市建設局 道路明示課」によって名付けられた…という。

✍️ 当時の 命名ルール概要がいようは---
⚫︎ 原則としては、古地図に記載きさいされている通り名 を 公称 として採用
⚫︎ 記載がない場合は、町の住人がしたしんでいる 通称名 を 公称 として採用している
…とのこと。

👉 ということは、京都市の現在の「通り名」を見れば、近世の失われてしまった 史跡の位置や由来を容易に推定したり特定できる ことが多くなり、それは非常に興味深いことですね💡





1)「万寿寺通まんじゅじどおり 」の 由来ゆらい歴史れきし


$${\text{現在}}$$ この通りの名前になった「万寿寺まんじゅじ」はこの通りには存在しません。



〓 「万寿寺まんじゅじ(萬壽禅寺まんじゅぜんじ )」 ッて 〜 どこに あったん⁉️ 〓


$${\text{万寿寺}}$$( 萬壽禅寺まんじゅぜんじ )は、1330(元徳2)年〜1591(天正19)年の間、
樋口小路ひぐちこうじ( 現: 万寿寺通まんじゅじどおり )の南側
高倉小路たかくらこうじ( 現: 高倉通たかくらどおり )~ 東洞院大路( 東洞院通ひがしのとういんどおり )にあったと言われています。


$${\text{下図の}}$$現在の地図を見てみると、付近の
万寿寺通まんじゅじどおりには「万寿寺まんじゅじ中之町なかのちょう」の町名、
五条通ごじょうどおりには「万寿寺町まんじゅじちょう」の町名
 ーーー が残っています。


$${\text{ちょうど、}}$$ ーーー

⚫︎ 東端 = 東洞院通ひがしのとういんどおり
⚫︎ 西端 = 高倉通たかくらどおり
⚫︎ 北端 = 万寿寺通まんじゅじどおり
⚫︎ 南端 = 五条通ごじょうどおり

ーーー を囲うように2つの町名が残っていることから、そのあたりに「万寿寺(萬壽禅寺まんじゅぜんじ)」が存在したことをうかがわせますね。

★ 現存している「万寿寺中之町まんじゅうじなかのちょう町名表示板ちょうめいひょうじばん と 「東洞院通ひがしのとういんどおり」・「万寿寺通まんじゅじどおり」・「高倉通たかくらどおり」・「五条通ごじょうどおり」の地図


$${\text{旧地の}}$$このあたりに 「 万寿寺まんじゅじ 」は、
⚫︎ 通り名:万寿寺通まんじゅじどおり
⚫︎ 町名:万寿寺中之町まんじゅじなかのちょう万寿寺町まんじゅじちょう
として、名残なごりをとどめているのです。



〓 「万寿寺まんじゅじ(萬壽禅寺まんじゅぜんじ ) 」 ッて 〜 「東福寺とうふくじ 」…⁉️ 〓


★ 京都市東山区の「東福寺とうふくじ」内にある 非公開寺院である「万寿寺まんじゅじ」( 萬壽禅寺まんじゅぜんじ )


$${\text{万寿寺}}$$( 萬壽禅寺まんじゅぜんじ )は、1386(至徳3)年に 禅宗 京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の第五位となり、当時は 公家や足利家をはじめとする武家の崇敬を集めたものと言われています。


$${\text{秀吉}}$$ の京都「都市大改造」事業によって、1591(天正19)年に、京都五山第四位の「東福寺とうふくじ」の北側にあった「三聖寺さんしょうじ」の隣地に移転されました。


$${\text{その後}}$$ 1873(明治6)年、 「三聖寺さんしょうじ」は 「万寿寺まんじゅじ」 に合併され、1886(明治19)年には 臨済宗 大本山 「東福寺とうふくじ」の 『塔頭たっちゅう』 になり、現在に至っているとのこと。


$${\text{現在}}$$ 〜 京都市 東山区ひがしやまく本町五丁目にあり、臨済宗大本山の「東福寺とうふくじ」内にある「万寿寺まんじゅじ」は、特別扱いの塔頭たっちゅう寺院になっており、非公開 寺院 であるため、鐘楼しょうろうを上層にせた山門から境内をうかがうだけとなっています。


⬆️ 「万寿寺まんじゅじ」 の説明サイト ⬆️





2) 現在げんざい の 「万寿寺通まんじゅじどおり



万寿寺通まんじゅじどおり の 概要 ッて 〜 ⁉️ 〓


$${\text{万寿寺通}}$$は、現在の 京都市内 の 『松原通まつばらどおり 」と 「五条通ごじょうどおり 」の間を 東西 に走る通りで、$${\text{車は}}$$$${\text{東行き}}$$$${\text{への}}$$$${\text{一方通行}}$$です。


$${\text{他の道}}$$と比べると、以下の特長があります。
$${\text{①}}$$ 全体的にはかなり狭い道幅の箇所が多い

$${\text{②}}$$ 自転車 の往来が比較的に少ない

$${\text{③}}$$ 昭和の雰囲気が残っている箇所が多い


🤫個人的には、$${\text{一番好きな通り}}$$ =$${\text{ My favourite street }}$$ですねん ---⁉️


🗣≪<< $${\text{まんじゅ}}$$$${\LARGE\text{う}}$$$${\text{じどおり}}$$


〓 〓 〓 万寿寺通まんじゅうじどおり」 の 風景動画 & スライドショー  〓 〓 〓


👁️‍🗨️ 万寿寺通まんじゅじどおりりながらの🤳動画を2つ 📺YouTube に⤴️アップしていますので、気が向いたら視聴願います⬇️

① 「万寿寺通まんじゅじどおり小田原町おだわらまち」西入ル にある「修徳しゅうとく公園」前の 万寿寺通 から 東方面へ 万寿寺通御幸町ごこまち までの 辻毎つじごとの写真📸 のスライドショー🎞️  ⬇️⬇️⬇️


② ここから軽四くらいしか通れない狭い道幅になる「万寿寺通まんじゅうじどおり富小路とみのこうじ東角ひがしかどから、半世紀前に住んでいた 御幸町通ごこまちどおり松原まつばらさが西側にしがわ路地ろーじ までの風景映像📺            ⬇️  ---  ⬇️  ---  ⬇️  ---  ⬇️  



$${\text{車は}}$$ 東行きへの一方通行なので、「東中筋通ひがしなかすじどおり 」から 「西洞院通にしのとういんどおり 」に向かう道幅もかなり狭いので、運転苦手の普通車はいつもノロノロ運転で、サイドミラーを引っ込めて通って行く光景もよく見かけますね。



$${\text{特に}}$$ 「富小路通とみのこうじどおり」から「河原町通かわらまちどおり」までの区間( 富小路通とみのこうじどおり麸屋町通ふやちょうどおり御幸町通ごこまちどおり寺町通てらまちどおり河原町通かわらまちどおり )を通って行くには、けい自動車 がやっと通れるくらいの道幅しかありません。





万寿寺通まんじゅじどおりの 最東端 の「万寿寺橋まんじゅじばし」 ッて 〜 ⁉️


$${\text{万寿寺通の東端}}$$ は、「寺町通てらまちどおり」南端 と 「河原町通かわらまちどおり 」が合流する交差点こうさてんから、更に東へ抜けられる小道こみちがあります。

$${\text{その抜け道}}$$は、近辺の住人じゅうにんはよく利用される、自転車がやっと通れるくらい の路地ろーじのような せまい道幅の「みち」を進んで 行きます。


「 $${\text{万寿寺橋}}$$ (まんじゅじばし)」が、突き当たる手前を流れる「高瀬川たかせがわ」の上に かっています。

$${\text{その}}$$「高瀬川たかせがわ」沿いを走る「木屋町通きやまちどおり」で 行き止まりとなり、ココが万寿寺通まんじゅじどおり」の $${\text{最東端}}$$ になります。

万寿寺通まんじゅじどおり 最東端にある 高瀬川たかせがわ に架かる「万寿寺橋まんじゅじばし


$${\text{木屋町通}}$$(きやまちどおり)の東側は、ご存知の通り「鴨川かもがわ」が流れており、一筋ひとすじ 北に「松原橋まつばらばし」・一筋ひとすじ 南には「五条大橋ごじょうおおはし」が架かっています。


〓 〓 〓 近辺の住人しか通らない〜 高瀬川たかせがわ 西沿いの『桜小径さくらこみち 〓 〓 〓


👁️ 河原町通かわらまちどおり から 高瀬川たかせがわ沿いぞいに抜けられる狭い道は、ほとんど近隣の住人じゅうにんしか通ることないようです。

⬇️ 2022年春の 高瀬川沿い🌸桜小径 📺YouTube の冒頭に、その みち について 少し説明をのせていますので、よければご覧ください。   ⬇️  ⬇️  ⬇️  ⬇️  ⬇️



$${\text{木屋町通の東}}$$に流れる「鴨川かもがわ」を越えた 更に 東の延長上は、「柿町通かきまちどおり」、「ろくはら裏門通うらもんどおり」につながっています。




万寿寺通まんじゅじどおりの 西端 ッて 〜 どないなってるん ⁉️ 〓

高瀬川たかせがわ に架かる橋 と 寺町通てらまちどおり から 黒門通くろもんどおり までの万寿寺通まんじゅじどおり に残っている全ての 万寿寺まんじゅじとおめいの「町名ちょうめい表示板ひょうじばん」🤳


$${\text{西端は、堀川通}}$$を渡って、1本目の「岩上通いわがみどおり」・2本目の「猪熊通いのくまどおり」を通り過ぎ、3本目「黒門通くろもんどおり」と 「万寿寺通まんじゅじどおり」 が$${\text{合流}}$$して、このかどで 一旦 途切とぎれ ます。

★ 南北を走る「黒門通くろもんどおり」 と 東西を走る「万寿寺通まんじゅじどおり」が 合流ごうりゅう します👀


      〓 〓 〓 黒門通くろもんどおり 以西の「 万寿寺通まんじゅじどおり 〓 〓 〓

👉 「万寿寺通まんじゅじどおり」は、西へ進むにつれ、上記の「田の字エリア」での雰囲気とは、少し異なるように思われます。

👁️ 地図アプリ で確認してみると、西方面は 「大宮通おおみやどおり」以西も、所々で「万寿寺通まんじゅじどおり」 が分断されていますが、右京区うきょうく西院さいいんの「佐井西通さいにしどおり」まで至ります。

👀佐井西通さいにしどおりまでかと思いきや、「イオンモール京都五条店」の北側を斜めに通る小路こうじも「万寿寺通まんじゅじどおり」の名称になっており、「天神川てんじんがわ」に架かる「西万寿寺橋にしまんじゅうじばし」までが、地図と道路標識には 「万寿寺通まんじゅじどおり」と記載されています。

👁️‍🗨️その「西万寿寺橋にしまんじゅうじばし」以西は、「 国道113号」のはずですが、某地図アプリによりますと、「葛野西通かどのにしどおり」までも「万寿寺通まんじゅじどおり」と通称つうしょうされているようです。





3) 現在げんざい までの 「万寿寺通まんじゅじどおり


〓 「万寿寺通まんじゅじどおり界隈かいわい衰退すいたい


$${\text{万寿寺通}}$$の 「寺町通てらまちどおり 」から 「西洞院通にしのとういんどおり 」の間には、今から約90年前の1930年代 = 戦前には、仏具店だけで 30店もある「仏具屋街」だったそうですが、2024年現在では 6社7店舗ほどに激減しています。

★ 2024年現在の 「万寿寺通まんじゅじどおり」に残る 仏具店ぶつぐてん 6社。その中で、「間遠まとお」さんだけが 2店舗展開されています。


$${\text{それに}}$$関連して、仏具ぶつぐ法衣ほうえじく京扇子きょうせんす水引みずひきなど仏事・慶事の店も かつて ならんでいましたが、こちらも衰退すいたいしています。

★ この「今村金生堂いまむらきんせいどう」さんは、現在は「水引みずひき」ではなく、「お菓子包材パッケージ」の企画・製造・販売をされています。⬆️上の写真は、万寿寺通まんじゅじどおり御幸町ごこまち西入にしいル の 旧本社 の瓦屋根に今も残る 立派な 看板です。


★「榊漆工芸」さんは、2024年現在も 京漆器 を作成されています。


★ 2010年以降に『廃業はいぎょう』されたと思われる…「寺町通てらまちどおり 」から 「烏丸通からすまどおり 」の間に 存在した 京扇子・漆器商・仏具・染織工芸・和菓子屋・手焼き煎餅屋



$${\text{「東洞院通」}}$$から「西洞院通にしのとういんどおり」にかけては、かつての 昭和 の 京呉服業界 の景気がよかったご時世には、いわゆる「$${\text{室町筋}}$$」と呼ばれる 和装業者( 呉服問屋、絞り屋、和装小物店、悉皆屋しっかいや 他 )が軒を連ねていましたが、今は見る影すらありません。

★ 2010年以降に『廃業はいぎょう』されたと思われる 〜「東洞院通ひがしのとういんどおり」から「西洞院通にしのとういんどおり」にかけての「万寿寺通まんじゅじどおり 」に存在した 主に呉服会社 と 繊維会社



$${\text{また、}}$$寺院が集まる 「寺町通てらまちどおり」 や 「本願寺ほんがんじ」さん からの定期的な需要もあったためなのか…「寺町通てらまちどおり」から「堀川通ほりかわどおり」までの間には 仏壇・仏具屋さんだけでなく、 表具屋ひょうぐやさん、建具屋たてぐやさん、畳屋たたみやさん も多かったようです。

★『畳屋』さんの内 「池内」さん•「梅津」さんは既に廃業されて、2024年現在「田の字エリア」 の 「万寿寺通まんじゅじどおり」には「櫻田」さんのみになりました。
  また、多く集まっていた『建具屋たてぐやさんも「大谷」さんの向かいの「高橋」さんや、ご近所の「上村」さんと「三田村」さんも既に廃業されて、今は「大谷」さんが西院の方で工房を継続されておられるとのことです。


     〓 〓 〓 鍛 冶 屋かじや 』 ッて 〜 どこへ ⁉️ 〓 〓 〓


📝 話しは少しズレますが、私の幼少時の 昭和30年代くらいまでには 各町内毎に 1軒ぐらいは必ず 『鍛冶屋かじや 』さんがありましたが、今は時代の淘汰で 影も形も残っていないようです。

👉 各家庭での ちょっとした修理を快く低価でよく直してもらい、母親が重宝していた記憶があります。

🤲 昭和30年代の小学校のクラスの同級生に必ずと言っていいくらいには、鍛冶屋かじや 』の子が居りましたのも、今は昔のことになりますけどね。