轉戦記 第4章 終戰編 自活えの闘い①

 愈々バンコックに到着すると、日本帝国の敗戦を伝えられた。漠然として予想はして居たものの、矢張り信ぜられぬ気持で愕然とした。泣いて防毒面を焼き捨てる者、打沈む心を酒で紛らかす者、怒鳴り散らして八つ当りする者、今後の不安感等で、一時は皆んな落ちつきを失しなって居た。私は愈々軍隊の階級を捨て、夫々の個人の実力を発揮する時が来た、と痛感した。 

 不思議な事に、私は別に何の感動も起こらなかった。何を感じ様にも、故郷は余りにも遠過ぎるし、此れから先どの様になるかは、誰一人予想出来ない現状では、「当面する問題に其れ相応に適宜に処して行く他はない」と割り合いに淡々とした心境で、当時は故郷の事も、肉身の事すらも、頭の中には浮かんで来ない程だった。これは軍隊入隊前から南方に居たので、或ひは南方呆になって居たのか、又は事があまりにも重大過ぎて、地球の自転の音が聞えないのと同じ様に、敗戦と云う重大問題を、良く理解出来なかったのかも知れない。兎に角敗戦の宣言が有ってからと云ふものは、実に騒然たるもので、武器弾薬をトラックに積み込み、山奥に逃げ込む者、部隊から離脱して逃亡する者、暫くは無秩序状態であった。我等は急遽バンコックの埠頭にある軍の倉庫に行き、倉庫の整理と云ふ事で、食糧や被服類等、必要な物資をどしどしトラックに積込んで、ナコンナヨークの方に輸送した。此の倉庫には、南方方面所在の3百萬の日本人が、三年間戦っても耐え得る丈の物資が貯蔵されて居ると云はれて居る丈に、物凄い量の品物が山の様に積み上げられてあった。最前線で闘ふ我等は、常に不自由から不自由の欠乏生活の連続であったので、此の現実を目の前にしても、信じられぬ程であった。我等は毎日新品の服を取り替えては着替え、一斗入りの甕を蹴破っては酒を飲んだ。一方敵機は毎日「日本無条件降伏」のビラを上空より盛んに撒いて居た。           一九五四年 八月一六日

 糧秣、被服類等の輸送業務を終った我等は、汽車でバンコックからプラチンブリーに至り、其処から行軍で一六粁程山奥の、ナコンナヨークに向った。此の日は夜間行軍で、暑さの心配はなかったが、真っ暗いジャングルの中の行軍は、道らしい道もなく、先抜隊員が密林を踏み分けて出来たばかりの道を、木の枝を押しやり踏み分け乍ら行くので思ふ様に進めず、野営準備に先抜けで来て居た者が、道案内に来てくれたが、此の道案内も馴れぬジャングル内のこととて道が容易に判り憎く、少し前進したかと思ふと、兎道の様な道を探すので、予想外に時間がかかり、各自重い背嚢を背負って居るので、肩が痛く大変な苦労であった。着いた所は、ジャングルの中に応急に仮造りされた粗末な小屋で、柱と床はジャングルの竹を伐って作り、屋根は「ニッパー」と云って、椰子の葉を六〇糎程の長さに切り揃え、竹の小割りにしたものに編んだものを、張り重ねて葺いたものである。何分小さくて狭い小屋なので、其の夜は一同重なり合う様にして、竹を並べて作った床の上に寝た。明くれば早速部隊全員で、ジャングルを伐り開き、敷地造成をし、宿舎の建設作業に着手した。我等は今後此の地に幾年(いくとせ)を過ごすものやら、或るひは連合軍の出方次第では、此の地が我等の終焉の地となるかも知れないと云ふ事から、宿舎は半永久的な建物にする事にした。とは云っても製材機がある訳でもなければ、釘金物類等何一つないのに建築するのだから、その苦心は大変であった。柱も、壁も、床も全部竹を使用した。屋根はニッパーで葺いた。釘やかすがい、番線の代用として、ジャングルには豊富なかずらを使って、組立てをした。 ニッパーを除いては、全部現地で採集した。此の建設と併行して、自活の為めの準備も、着々と進めて行った。ジャングルを開墾して野菜の栽培も始めた。裏山のジャングルを偵察して、野生の青いバナナを見付け、これを工夫の結果、地中に一メートル程の穴を掘り、穴の底に藁灰を入れ、その上に藁を敷き、それから青いバナナを入れてその上を藁で被ひ、一番上を土で覆って置くと、一晩で黄色に熟れる事も解かって、貴重な主食の一つとなった。然しこれは胃腸に悪い事と、あきが来てしまひ、段々と食べる者もなくなった。バナナの木の芯が食用になると云ふ事で、此れは野菜代用に良く使用された。此の宿営地の建設中に、英軍の命令とかで、屢々プラチンブリーの駅から宿営地迄物資を運ばされた。灼熱の太陽の照り付ける日中の道路を六〇瓩入りの米一俵宛を、背に負はされて十六粁の道程を歩かされたり 又は南方産の水の比重より重いチークの木材を皮膚は破れ、血の滲んだ肩の痛さをこらえ乍ら肩に擔いで運ばされた。大抵の兵は運搬の途中で、熱射病と疲労とで次々と倒れて行き、逃亡者も続出した。 熱帯の日中を十六粁歩るくと云ふ事は身体一つだけでも容易な事ではないのである。この様な事態の中にあっても我等の部隊行動はビクとも揺らぐ事なく、嘗ての北支那の運城の兵営生活と同じ様に、毎朝毎晩、天皇陛下に対し奉り、東方遥拝ようはいの儀式と、点呼が型通りに行はれた。厳しい軍紀の下に衛兵も置かれ警戒も厳重に不寝番も付けられた。然し残念な事には、此の地で私達が苦心して中支那の南京から連れて来た朝鮮人の初年兵の集団逃亡があった。

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