轉戦記 第三章 南方編 転進南下①

 一九四五年 五月、故郷を遠く佛印に在りて、我等は昼となく夜となく、敵の執拗なる空襲と、熱帯の暑さに悩まされ乍ら、次の戦闘準備に怠りなかった。 然し戦況は実に絶望的なもので、既に敗戦の兆し濃厚であった。 我等の駐屯地に捕虜となって居る、フランスやオーストリーの軍人達は、「今年の九月迄に、連合軍が大勝利を収めて戦争は終結する。」と云って居た。 此の言葉を巡って、連日兵隊間の唯一の話題となって居た。……    五月二十七日、我等は南え転進の命令を受けて、愈々運命の転進行動を開始した。 先ずダップカウから行軍にて、焼き付ける様な佛印の道路を、毎日熱帯特有の悪性な疫病と闘ひ乍ら行軍を続けた。 或る日の事、初年兵一同が下痢をして元気がないので、恐らく蛔虫の所為と云ふ事で、佛印では豊富な栴檀せんだんの立木のままの皮を剝いで、これを煎じて黒砂糖を混ぜ合せ、強制的に飯盒の蓋一杯宛を、全員一列横隊に並ばせて、号令の下に一気に飲ませた。 何分にも栴檀の皮の煎じた汁は、苦くて飲み憎いので此の様なやり方でないと、飲まずに捨ててしまふのである。 此の時に正直に飲んでしまった者は、薬量が多過ぎ、飲み終わると同時に即座に目を廻してブッ倒れてしまった。 此の為めに部隊の行動を一日間停止する破目となり、部隊長から大目玉を頂戴した事もあった。 佛印の首都サイゴン迄南下した部隊は、此処で一日を過し、更にミトー迄行軍して、ミトーより船でメコン川を北上して、プノンペンに到着した。 プノンペンはカンボヂャ人の街で、中には日本人経営の喫茶店も有り、立派な飛行場もあるフランス風の綺麗な街である。 部隊は此処で一週間程休養した。 此の街の喫茶店で飲んだ、ブランデーの味は別格であり、今でもあの香り高ひ匂ひが、此の鼻に残って居る様である。 私は予てから、初年兵追及中の感動を作詞して居たので、此れを町田中尉を通して発表した処、聯隊長も非常に賞讃して呉れた。 此の歌詞は、後にホワヒンの美しい海浜のフランス人の家で、町田中尉がピアノに依り作曲して、其れ以来復員に至る迄、聯隊内でよく歌はれたものだった。

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プノンペンより汽車で佛印国境を通過、シャムに入った。 此の国境線の附近は何日間汽車で走っても、家一つない広大な野っ原である。 汽車と言っても有蓋車の貨物列車である。 熱帯の灼き付く様な太陽の直射を受けて、鋼製の貨物車の中では、昼間は熱気で暑くてやり切れなかった。 夜になって貨車の鉄板が冷めたくなると、貨車の屋根の上に寝て、漸く睡眠をとる事が出来た。 だが翌朝心地好く眠って居ると、太陽の焼ける様な暑さで目を醒まし、驚いて進行中の車内に飛び降りて居た。 早く屋根から降りぬと、屋根の鉄板で火傷をするのである。 これでも灼熱の太陽の下で行軍する事を想えば、貨物列車の旅は眞に快適なものである。くて蒸し風呂の中に居る様な貨物列車にて、「プラチンブリー」「ナコンナヨーク」と進軍した。 

        一九五四年 八月一五日 記

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