轉戦記 第4章 終戰編 崩れた軍紀

 一九四五年一月十日、第三十七師団特別教化隊は、第十八軍の指揮下に入った為めに解散となり、三ヶ月目に懐かしの工兵聯隊に復帰した。宿営地の周辺のシャム人部落では、米の獲り入れも終えて、穂を抜き取ったあとの田圃の中に、立ち枯れたままの稲に火をつけて、其の炎々と燃え上る火の明りの下で、毎夜の如く踊り狂って居た。やがて雨期に入れば、此の田圃は総て水中に没してしまひ、六ヵ月間はその水が引く事はないのである。民家は此の水に備え、又野獣の襲撃を避ける為めに、床の高さは地上より二メートル以上も高くしてあり、床の上が住居で、屋根はニッパーで葺いて造ってある。構造は至極簡単であるから、自分の住家は、自分で作れるのである。宿舎の裏山を我等は「ドリヤン山」と呼び名を付けて居た。果物のドリヤンの実に良く似た形をした、密林の山で、ジャングルを伐り開き乍ら、中途迄は登ったが、頂上を極めた者は居なかった。此の山の頂上の岩の上を、朝方になると大きな動物が飛び跳ねて居た。支那馬程もある大きな勇姿が、朝日の映えて勇壮な光景を添えて居た。遠目乍らも豹ではないか、と見られて居た。此の地点から十二粁程奥地に大密林が有り、其処がシャムの猛獣地帯と云われていた。此の附近の土民が、馬の代わりに象を使って居るのを見ても頷ける事なので、「逃亡するなら、彼(あ)の山の方向だけは避ける様に」と皆んなの間で言交(いいかわ)されて居た。私達も内地に帰還出来る望みの全然なかった頃、三十名余りの同志を募り、毎夜密かに集っては「武器、食糧を持ち、仏印のショロンに出て米を満載して居る汽船を分捕り、内地に密航する」と云ふ計画を樹(た)てた事もあった。三ヶ月ぶりに帰った部隊内の空気は、以前とは全く違って居た。軍紀は乱れ、無規律状態であった。一部の将校からして軍の物資を持ち出し、毎夜の如く土民の家に行き、食糧や、酒、煙草の類と交換して居た。又この水先案内役の兵達は、既に此れ等一部将校との日常は、階級差意識も全く取り除かれたかの如き態度での接し方であった。「如何なる事態に至っても、平常心を失はず、不動泰然たるの人間性」と、「戦場に於いて、真の大勇を必要とする場合の、沈着大胆なる人間性」と、「階級的権力の下に支配される場合の、抑圧に対して卑屈なる人間性」と、「無統制の中に在りて、自己の端正さをも襟持(きんじ)する事能(あた)はず、堕落して行く弱い人間性」との、極端な相違を、個々の間に見る事が出来た。宿舎は夜ともなれば、照明がないので、真に不自由であった。私は此の地方に油の採れる木が有る事を知り、此れで灯油を造る事にした。石を土で固めて窯を造り、毎日鋸と、斧と飯盒を持って、土民部落の周辺を廻り、油の採れる木の幹に、五合入り位いの切込み穴を作って油を採集した。此の名も知らぬ木には、一晩で五合位いの油が、切り込んだ穴に溜まるのである。此の油を窯で炊いて、蒸溜したものを灯油として代用した。然し蒸溜装置の釜を、爆発させて失敗した事もあった。此の油の採集中に、部落の田圃の中で、傷ついて倒れて居た少女を助けて、薬を塗り治療を続けてやった。少女の傷が治る頃から、其の家族に非常に感謝され、私も昼間はよく立寄って居たが、乞われるままに、夜も遊びに行く様になった。此の家族は其の都度、鶏やドブ酒等で歓待してくれたが、食器が洗面器であるのには閉口した。此の洗面器も、恐らく日本軍人から、何かの交換として貰ったものであろう。此の洗面器の中の御馳走は、箸ではなくて、手の指で食べるのである。此の地方のシャム人は、女が男よりも権利が強く、一家の主権は女が持って居た。又「カモイ」と云って、泥棒の多いのは世界一だとの事で、泥棒をする為めには、部落間でもまるで戦争の様な闘争をする事も有った。彼等は英軍の宿舎も襲ふ計画もして居た様だが、此れは我々の居留中には実現しなかった。彼等は英軍の兵器を恐れて居たらしい。彼等は日本軍人には非常に好感を持って居り、逃亡した日本軍人の中には、ビルマ国境附近の山奥や、仏印の土民軍の中に大多数は逃げた様だが、シャム人の養子となって、農業に従事して居た者も相当の数であった様である。現地土民も骨惜しみせず良く働く日本人が欲しかったのか、随分と逃亡の誘ひが多かった。私も幾度となく土民に逃亡を促され、困ってしまひ、内地帰還の際は出発の日時を誤魔化したい位いであった。でも現地土民の泥棒根性は何んの持ち合わせもない我等の兵舎の留守を狙って忍び込み、僅かに内地帰還に備えて残して居た、虎の子の被服類迄も掻っ払って盗んで行った事もあった。三月三一日「ノンホイ」に病院建設に行く様命令され、現地に赴き、病院建設の作業をした。此の地には戦争中に軍の慰安婦として、勇躍、戦地に来ていた女性群を、特殊看護婦と云ふ変身の名の下に終結させて居た。「平和の女神」と云はれる如く、此の女性の多い建設地は、荒くれ軍人の取扱ひに手馴れた此の女神達に依って、夜ともなれば広い建設地の草原は楽園と化して居た様であった。然し此の附近では、現地土民の泥棒活動は一層過激で、土民部落同士で小銃や拳銃を武器をしての闘争があちこちで展開されて居た。

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