轉戦記 第4章 終戰編 復員②

 此の収容所に二晩収容されて、六月十七日朝、全員は出所を赦され、自由に身に開放された。東北出身の戦友は、聯隊長以下夫々各個に、午前中には出発して帰ってしまった。私達九州方面の戦友は、全員統一行動をとり、夜九時久里浜駅発復員列車にて出発した。汽車に乗って驚いた事には、軍の引揚列車であるこの汽車に、各駅毎に一般民衆が飛び乗り、駅員の制止も聞かばこそ、窓からでも飛び込んで来るのである。私達は内地の事情を知らないので、此の人達に同情して、狭い座席を譲ってやった。夜が明けた頃大阪駅に着いた。驚いた事には、駅の車中から大阪湾が一望の如く見透せるのである。あの繁栄した街が今残されて居るものは、ポツンポツンと淋しそうに立って居る工場の煙突ばかりである。街は完全に爆撃され、焼き尽くされて居る。神戸市も大阪と全く同じ壊滅状態で、焼野が原と化して居る。昼間の明りで見える何処の街も、見るも無惨な戦災の爪痕である。今更乍ら内地が大変だった事に驚くばかりであった。此の分ならば、「私の町も同じ状態であろう」と肉親の生死の程が心配された。六月十九日午前零時三十分広島駅に到着した。此の駅から汽車を乗り換える事になり、次の発車まで時間が有るので、全員下車して駅前に野宿する事になった。広島は戦地で既に噂に聞いて居たが、原子爆弾の被爆地である。暗くて広島市内の全貌は見る事は出来ないが、僅かに駅前附近にマッチ箱の様な小さな屋台が有るばかりで、此の経営者の殆んどが朝鮮人の様である。夜の駅前附近の雰囲気も、何んとなく不気味であった。私は同郷の者三名で、此の駅前の屋台に立寄り、ビールを飲んだら一本百円取られた。久里浜収容所で貰った三百円也の、私の所持金の総ては此処での支払ひに、全部使ってしまった。此れからの私は本当の無一文で出発である。駅の中は真夜中と云ふのに、民衆でごった返して居た。そして、此の民衆の顔は一様にとげとげしく、何かに脅えてでも居るかの様な動作で、鋭い眼差しをして居た。彼等の中に、内地に帰還したばかりで、何も解からない我々に向かひ、「貴様等は一等国の軍人ではないぞ!三等国の軍人で戦いに敗けた癖に」と悪態をく者が居た。私には思ひも依らぬ言葉にとれた。時流に抗するは難く、日支事変に至る迄の複雑な多くの事情は別として、抑々そもそも此の戦争の究極の発端は、AとBが謀り合ひ、CとDがこれに呼応してのABCDラインの、経済封鎖の術中に陥入ったのが、我が日本である。嘗て同じ此れ等の国々から煽動されて、日清、日露の役に戦ひ勝利を収めた真因を錯誤して、其の上更に、日本の力量の評価を迄も誤り、軽い頭を下げれば良いものを、昻然と張った胸の上に、のかった頭を重くしたばっかりに、九千萬の同胞が、塗炭の苦汁を味はう結果となったのではなかろうか。同じ日本人が、互ひに責め合う可き秋(とき)ではあるまい。歴却幾変遷りゃくごういくへんせんの間に在って、僅か百年の一事を以て瞋恚しんいし、一時の業果を嘆ずるは浅慮あさはかではなかろうか。私は何か釈然とせぬ悲しみと、人の哀れに、泌々と思ひに沈んだ。 

 六月十九日午前四時、広島駅発貨物列車に乗り込んで、一同は出発した。乗込む際、駅のホームに紙包みの一杯入れてある籠があったので、てっきり駅売弁当だと思ひ、皆んなで車中に竹籠ごと積み込んだが、発車後紙包みを開いて見たら、残念乍ら古切手の整理したものであった。途中何処かの駅で停車したら、駅弁らしきものを売りに来たので、これを買った者が多かったが、真っ暗い車中の事とて良くは判らぬが、色は黒い様だし、何んだか蚯蚓みみずの様な味と、感じがする。ので、皆んな食べずに捨てしまった。まさか蚯蚓ではなかったであろうが?

 「内地も此れ程迄に食糧に困って居る様では、容易な事ではない」と、内地に帰った事を後悔した様な話しをする者も少くはなかった。皆んなは、此れから先の生活に譬(たと)え様のない不安を覚えて来たのか、やがては、黙して語る者もなくなり、寂とした車内には、車輪の軋む音だけが空虚に響いて居た。復員列車は、真っ暗い闇の中へ向って、突っ込む様に進んで行く。恰(あた)かも夫れは、此れから先の我等復員軍人の、行方でもあるかの様に。 

        一九五四年八月一八日記 暴風雨の夜  

                     終り


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