轉戦記 第4章 終戰編 自活への闘い②

 此れは、或る将校の浅慮あさはかな言葉に端を発したものであった。或る日、私が教育を担当して居た、其の鮮人の初年兵が泣いて私の所に来て「残念だ」と言ふので、其の理由を問い詰めたら、「朝鮮人であると云ふ事で、人種差別的な、侮辱の言葉を受けた」といふ事である。そして彼は、此の部隊から逃亡する意思のある事を、私に仄めかすのである。「悪い事態になった」と思った私は、早速中隊長に相談して、翌日聯隊長立会いの上で宿営地の野っ原で、鮮人初年兵一同と、懇談の形で話し合ひをした。私は中支那の孝感で、前線に追及する為めの教育を始めて以来、日本語も不自由な、此れ等の朝鮮人初年兵に同情し、肩身の狭い思ひをさせまいと、殊更に彼等に対しては、細かい配慮をして教育し、優しく接して居た。そんな関係からか、彼等も私には非常に懐いて居た。 此の日は、彼等は私達の言ふ事を聞き入れて、逃亡する事を思ひ止どまる事になった。然し其の将校が此の一件を不満として、再び鮮人初年兵に対し暴言を吐いた為めに、遂に一部の鮮人が、集団逃亡をしてしまったのである。此の頃鮮人の間では、「日本敗戦と同時に、朝鮮は独立国となったので、鮮人兵士を朝鮮に連れ戻す為めに、バンコックに迎えが来て居る」と云ふ噂が、彼等の間で盛んであったから、或ひはバンコックに逃げて行ったのかも知れない。此の事件があって、一ヶ月程を過ぎた頃、鮮人の噂の通り朝鮮は独立して、鮮人初年兵全員は、バンコックに向け出発して行った。後に私が内地に復員して居たら、此の時の鮮人逃亡者の一人が、門司に住んで居て盛んに私に逢いたがって居た。彼はあの逃亡した頃の日記も、私に見せたいと話して居たと人を通じて伝言が有ったが、遂に再会の機を得なかった。今でも逢えなかった事を、惜しい事だったと思って居る。                        

 我等は此の地では、極めて食糧に不自由であった。所有して居る糧秣も今後の補給を懸念して極度に節約し、毎日僅かな粥をすする程度であった。全員体力的にも弱り果て、悪性のマラリヤや、熱帯特有の疫病で、次々と病死者が続出した。我等は此れから先、どの様になるのであろうか、総ては全く五里霧中で何一つ解らなかった。此の様な不安定な毎日の中に有っても、我等は未だに戦争に敗けたと云ふ実感に至らなかった。終戦後未だ敵軍の影すら見ても居なかった。部隊は何時でも戦闘が出来るだけの戦力を保持して居るし、軍紀も守られて居た。それに部隊内では、何んでも南方方面軍、軍司令官寺内大将は「南方方面軍のみで、戦争を続行する命令を出す」と云ふ流言蜚語が、真しやかに伝えられて居た。亦聯隊長以下幹部将校の連中も、常勝軍光兵団(第三十七師団)の夢去りやらず、此の噂を裏付けるに近い様な内容の訓話をして居た。然し遂に此の地で兵器を英軍に引き渡し、僅かに聯隊長のみが帯刀を許されただけで、完全に武装解除されてしまった。此の武装解除される時に届出して居た数量以外の、員数外の武器弾薬が多量にあったが、此れは裏山に深い穴を掘って、埋めてしまった。そうこうして居る中に、三十七師団の宿営地は現在各兵科、各聯隊毎に分散して居るものを、一ヶ所に統合する為めに、集団移動する事になった。此れ迄の宿営地を我等は「紀の川」と名付けて居たが、十月二十七日「敷島」と日本軍が名付けた。新らたな地点に移動する事になった。 「敷島」では「紀の川」より更に立派な宿営地を建設した。此の頃部隊内では、何の根拠もないが、「七年間以内に内地に還れる様な事は望めない」と云ふ予想であったので、永久にでも自活出来る様に、本格的に総ての自活えの準備に取り組んだ。農園を拓き、大豆、甘藷、等見事な野菜も栽培した。大豆が出来たら、それを納豆に製造した。又蔓の繊維で、立派な絵も漉いて出来た。此の紙で聯隊内の新聞も発行された。此の記事の内容も、ラヂオ一つない、外部との一切の情報や、連絡を断たれて居た当時のものとしては、充実したものであった。此の記事の中に、「デモクラシーに就いて」と云ふ記事が有った。戦時中の日本人は、外国の事情を知る事を、軍部から抑制されて居た。特定の日本人以外は、外国の事情に就いては、殆んど無知に近かった。即ち徳川幕府の鎖国政策時代に、逆戻りして居たのである。此の様な時代に、「アメリカのデモクラシー」などと云ふ様な記事を見て、私は一驚した。此の新聞の編纂をしたのは、湯浅照夫曹長であり、此の新たらしい知識を草稿連載したのは、京都帝国大学出身の池田直之主計中尉であった。此の新聞は、日本内地の状況を薄々乍らでも我等に知らせる大きな役割を果たした。又一方では、此れから先何年続くか判らない、灰色の自活生活の無聊ぶりょうを慰める為めに、各聯隊共有の、立派な演劇場も建造された。此の劇場で週一度位いであるが、各聯隊競演で演劇が開演され、皆んなを楽しく慰めてくれた。此れは後になって、各聯隊より選出された者を、師団に一括して集め、本格的に演劇の稽古をして、師団本部の演劇場で上演された。本職俳優の沢田清氏が兵として居たので、この本職が先生で、振り付けや指導をするので、仲々堂に入った演技であり、地方廻りの三文役者の芝居等、足下にも寄り付けぬ位いの立派なものであった。園芸内容は多様に亘り、ラヂオドラマ式のものから、喜劇や音楽迄まるで本物同然で、皆んなを喜ばせてくれた。然しあの物資のない所で、よくもあれだけの大道具、小道具から衣装や楽器類に至る迄も、揃えたものだと感心した。総て手作りのものであったのだから其の苦労の程も十分偲ばれた。 兎角終戦以来各部隊共、良く一致団結しての自活ぶりには、涙ぐましいものが有った。軍の規律も克く守られ、寸毫みだるる事もなかった。

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