轉戦記 第二章 中支編 初年兵受領②

 武昌に着くと、一行は兵站に宿泊したが、此処での一日三度の食事受領が大変で、馴れぬ初年兵の事とて容量も悪るく、毎度大騒ぎである。 此の武昌で一夜、初年兵を連れて映画館に行った処、丁度此の日が漢口の大空襲の日で、空襲警報と同時に映画館を飛出して、武昌と漢口の間の渡船場迄行き、揚子江の岸壁に身を寄せて、夜空の敵機の様子を見て居た処、地軸も裂ける様な大爆発音と共に、一瞬にして対岸の漢口の街はフッ飛んでしまった。 米国空軍による大爆撃である。 漢口の街は一晩中炎々と燃え続いた。 爆弾の一斉投下の時には、揚子江の水が爆風で逆巻き、水の流れが一時止まった様に、爆弾の閃光で見えた。 「此んな所に長居は無用」と漢口に渡り、漢口から汽車にて孝感の兵站まで初年兵を引卒して帰った。 兵站に帰って驚いた事には、我等が出張中に米軍の空襲を受け、一瞬にして百十名の死傷者を出し、内五十名が戦死したとの事である。 甲種幹部候補生の倉前君も、姉えの傳言を私に託したのが一生の別れとなってしまった。 生き残った負傷者の中にも、片足飛んでしまったりで、重傷者ばかりで、その時の惨情は目を覆ふものがあったそうである。 私は北京の倉前君の姉さんに、此の時の情況を手紙で知らせてあげたが、そのペンの重さに幾度かペンを投げ出しては又勇気を出して書き綴った。…… 孝感到着の翌日から、我等は直ちに初年兵の訓練にかかった。 初年兵に対し此処では差当り、本隊え追及中の戦闘に役立つ程度の教育が必要である。 何時出発命令が下るかも判らないので、我等は毎日敵の空襲を避けては、猛烈な訓練を続けた。此の頃私は、毎日マラリヤが再発して病魔に悩まされ乍らも、一日も休まず初年兵の教育に全身を傾注した。 一九四五年一月三十一日、長門大尉を大隊長として、野戦第三十七師團の初年兵を卒ひ、果して何処迄進撃して居るかも解らない前線の本隊を追って、寒風吹き荒ぶ中支那の曠野を、一路南え向って孝感を出発した。 武昌に於いて若干の装備を補充して、二月二日、雪の武昌郊外に天幕露営をした。 此の日の夕食の炊事には、燃料の薪がなくて、竹や生木を伐って飯盒の飯を炊いた。 雪を掻きのけて炊く生木の燃えないのには困ってしまった。 私達は出発当初から、初年兵に急激に、行軍の苦るしさや、戦闘の怖さを知らせる事には、細心の注意をして居たのである。 徐々に、此の様な事に馴らして行く方針であった。 翌二月三日早朝、愈々本隊追及えの長途の死の行軍は開始された。 長安を通り、缶陽迄来たが、此処でも雪の中に天幕露営だ。 薪もなく、立木を伐っては燃料にする。 生木で燃えないので、米も半煮えのまま食べた。 易俗家ー衝山ー衝陽と、同じ道を三度目の行軍で通り、零陵に到着した。 武昌から僅かばかり背嚢に詰めて来た食糧も、四、五日分だけのものであったから、此の間毎日食糧は自給自足である。 宿営地に夕方着いても、休む間もなく附近の部落に徴発に出かけねば、食べる物がないのだ。 沢山徴発出来た場合には、苦力クリーの肩に擔がせて運ぶが、それ位いの食糧は、せいぜい一日分位いのものである。 零陵に着いた日の事である。 江島准尉が私達に「初年兵は役に立たぬので、既教育兵ばかりで徴発に行こう」と謂ふので、我等は特に優秀な者、十五名程を選び出して徴発に出発した。 所がどうしたものか、奥地に入れ共、更に行け共行け共、部落がない。 遂にその日は、本隊に帰らぬまま一夜を野宿してしまった。 これは後になって感着いたのだが、孝感の兵站で待機して居た連中は、此の初年兵部隊と共に、本隊に向け追及して居るのだ。 その為めに、工兵隊の追及中の隊長は現在町田中尉である。 町田隊長は九州出身の、甲種幹部候補生上りで、江島准尉は東北出身で、コツコツと長い年数をかけて今日准尉に昇進して居るのである。 江島准尉としては「なんだ追及中の臨時隊長のクセに、実戦にかけての実力は俺の方が優れて居るぞ」と云ふ様な観念や、甲幹上りと、下司官上りとの微妙な相剋そうこくがあったに違いないのではなかろうか。 今度の事も、優秀な既教育兵を町田隊長の手から引き離して、「隊長を困らしてやろう」と考えた結果であろう。 我等は却って、世話の焼ける初年兵と別れて、暢気な旅をして居る様なものである。 翌朝小さな部落を見付けた。 部落の直ぐ裏の、小高い山の中に潜んで、夜明けを待ち、炊事の煙りの立ち昇る時間を計(はから)って、 「朝食も出来上る頃だぞ」と一斉に威嚇射撃をした。 驚いて飛び起き、慌てて素っ裸で逃げ惑ふ部落民を、暫く見極めて、一同「ドドーッ」と部落に一斉になだれ込み、目ぼしい物品をかすめて「サーッ」と一散に引き揚げた。 余程徴発に馴れてないと、此れが出来ないのだ。 未練がましく物色して居ると、敵の反撃にやられてしまふ。 私達は少数なので、敵が陣容を備えて来ない中にと、南へ向って強行軍した。 手馴れたもので、兵は一同兵器以外は何も持たぬ軽装だ。 掠奪品は、捕えた支那人に全部擔がせてある。 私は此の時、鍋に泥鰌を入れて炊いていたのを見つけ、「グツグツ」煮えて居るのを、鍋のまま下げて引き上げ、皆んなで食べたら大変美味しかった。 こんな毎日を繰返し乍ら一週間ぶり位いで、徴発の土産をどっさり持参で、本隊と合流した。 初年兵は心強くなって大変な喜び様だ。 だが町田隊長は大変な御立腹と来て居た。 然し、何時もの人懐こいあの温顔と、微笑みは失なわれては居なかった。

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