轉戦記 第一章 北支編 一期の検閲前後③

一九四三年一〇月二十四日、聯隊長の祝辞と決別の辞を受け、本隊に見送られて、再び渡河器材と共に貨物列車に乗込んで、流安に向った。 此の車中は大変時間がかかり、四日余りもかかって流安に着いた。 四年兵の上等兵に二人面白いのが居て、途中停車時間の長い駅では、よく二人でホームに降りて面白い動作で皆んなを笑わせ、慰安してくれた。彼等は頭髪を剃り落し、坊主頭に眞赤な マーキュロムを一面に塗って、愉快に振舞って居た。他の古年兵も、大抵は死地に向ふと云ふので、初年兵にもやさしかった。 流安は北の方でも大きな街であり、此の奥地にも日本商人が入込んで居た。 小隊長は、全員に自由に外出する事を許した。 一同は、毎日外出しては酒を飲み、狂人の様に暴れ廻った。 今日只今、生きて居る事を確かめ合ふかの様に。 愈々目的地の山奥に向け出発する事になった。 折畳舟を軸重隊のトラック一台当たりに五隻半宛を屋根形に組合せて積み、其の間に櫓や鋼類を入れて、兵が一人宛荷台に乗り込み、山道を驀進した。 舟は尖形と方形のもの二個を組立てると、一隻になる仕組みである。 目的地は、山又山の奥地で、五、六軒しかない部落であった。 部落民は、敵地だから、既に皆んな逃げて猫の子一匹居なかった。 此処の民家を宿営地として三キロメートル程離れて居る作業地点の河に、山道を超えては毎日通った。 此の河は、予期した程の河でもなく、船を使ふ程の事もないので、既設の木橋の改修作業にかかった。 此の河から更に四キロメートル程山奥に行き、檜を伐採して、肩に担いでは一本宛運び出した。腕が動かなくなる迄伐採を強行して、肩の皮が破れて血が滲んでも、材木の運搬は直早く行はれた。 架橋作業中に、廔々(しばしば)敵に襲撃されて、あまりウルサイので、一度武装して全員で奥地に向け討伐に行ったが、敵には遭えずに、敵部落で干柿を沢山分捕り、一同下痢をする迄に喰った。 柿の多い所だった。 此処では食糧の補給がないので、附近の部落を襲撃しては、食糧等を懲発した。 架橋作業も、完成に近くになると、古年兵連中は決死隊の意気込みで乗り込んで来たものの、大した事もないものだから、力の捨場を私達初年兵に持って来た。毎夜の様に、うまい理屈をでっちあげては初年兵を引張り出して、鉄拳制裁をした。 小隊長は、作業報告書に橋梁の設計書が要るので、私を指揮班に廻した。 私はそれからの毎日は図面作りだったが、寒い蒙古風がオルドスの方から吹いて来て、朝夕は手が痛い程に冷めたかった。 靴油でえメリケン粉の練ったのを焼いて食べ、小隊全員が嘔吐して苦るしんだのも此の時だった。作業が終わると再び流安に引返して、二、三日休養して外出した。 此の時は一同全員、金目の品々を分捕って持って居たので、これを現金に換えて大いに酒を飲んだ。

 無蓋の貨車に、器材と共に乗込み、懐しの運城に三ヶ月ぶりに帰ったが、夜の車中の寒さは云ひ様もなく、一晩中、歯の根も合はぬ程寒さに震るへ、背と腹の皮が喰い付き合ふ程の痛さであった。 四日目の十一月三十日、運城に着き聯隊の迎えを受けて兵営に帰った。 兵営内は、居残り組の手によって見違える程美しく整理されて居た。 聯隊に帰ってから、流安方面の作戦を、猛号作戦と聞かされた。 今迄の作戦行動間の不規則な生活から、再び堅苦るしい兵営生活に入り、早速衛兵勤務や不寝番が続いた。 帰営してから当分の間、不寝番の指名がないので、内務係准尉が忘れて居るものと思い密かに喜んで居た所、何日の間にやら任務に就けられてしまった。 冬の雪の中の衛兵勤務は楽ではない。 二十四時間ブッ通しの勤務で、次の日は半日休めるが、小銃の手入れや何やらで、休み処ではない。 それに勤務たるや「歩哨」に一時間立てば次の一時間が「前哨」と云って、衛兵所の衛兵の一番前に見張りに立たされる。 これは、上官が来たことを知らせる役目の様なもので、敵の備えなどになる可きものではない。 その次が「控え」と云って、一時間衛兵として、木製の長椅子に並んで腰掛け、威儀を正して坐って居る。 これを二十四時間繰返すのだが、夏の歩哨は眠いし冬は寒くてやり切れぬ。 立哨中は、大便、小便はおろか煙草も喫えぬ。 軍隊の良さも、悪るさも、衛兵を勤めて見れば皆わかる。 兎角、形ばかりを守らうとするから、間抜けな所が多い。 兵は、これ等の厳禁事項を立哨中に皆、実行して居た。 然かも、昼間に堂々とやる者も居たが、「要は、敵に注意を怠らねば何等支障はない。」と云ふのが、兵間の論理であった。

 一九四三年十二月一日、私は選抜上等兵に、一番の成績で昇進した。 古年兵の中には、これを嫉み、何かと私に難癖をつけた。 その文句はきまって「横着者」と云ふ言葉に始まって居た。 当の本人は昇進を一向に歓迎して居ない事を知らないのである。 此の頃聯隊長は、毎週一度宛、全員に戦局を説いて聞かせた。 私は時折り見る新聞を判断して、日本の敗戦の近きを薄すうす感じる様になり、戦友とも密かに語り合った。 ソロモン方面の海戦も香(かんば)しくなく、私達の頭上にも 敵機が爆撃を投下して来る様になった。 北支那方面軍の間にも、何か不気味な雲行きを感じ、兵隊間では早くも、南方転進だとか、作戦開始だとか、噂さはしきりに飛ぶ様になった。 大抵、此の様な噂さは、不思議と当るものであった。

      一九四九年 十月五日記 雨


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