轉戦記 第三章 南方編 本隊追及達成②

 二間位いも気長く休んで居たら、友軍の方から「夕暮れ迄居ると、周辺の敵が襲撃して来る恐れがあるので、何とかして早く出て呉れ」と大聲で知らせて来たので私は一計を案じ、坑内に折良く有った長さ一・五メートル程の板切れを「ポン」と入口の外に放り出した。 すると敵は私の予想通り、此の板片を私と錯覚してバラバラと石を落して来た。 私は其の石の最後のものが落ちたと感じた瞬間、坑道から一目散に走り出て一気に台地の下迄走り下りた。 敵は私の姿を見て投石したが、私の計算通り石の落ちる時間より、私が落下圏外に走り出る方が早かった。 此の日の徴発は失敗に終わったが、当方にも何の被害もなかった。 此んな毎日を送り乍ら南寧の大きな河を渡り、愈々佛領印度支那の国境に向って、人家らしきもの一つない所を、毎夜強行軍を続けて行った。 此の頃、「佛印には本隊が居るらしい」との情報が入ったので、一同も張り切って来た。 今迄は果して本隊は何処に居るものやらさっぱり見当も着かず、やれビルマだとか、ニューギニヤだと、夫々勝手に憶測しては、流言蜚語が飛んで居た。……

 一九四五年(昭和二十年)五月十四日午後九時、月の冴えた夜、我等は生涯忘れ去る事のない感慨に浸った。 我等第三十七師團初年兵追及部隊は、中支那の雪の武昌を二月二日に出発して百一日目の今、佛印国境の鎭南関の峠に辿り着いたのである。 此の弱体の部隊がよくぞ敵中を衝いて、萬里の道を踏み越えて来たものである。 思ふだに感慨一入ひとしお深く、一同歓喜して聲も高らかに軍歌を合唱し、盛んに士気を鼓舞して、更に此れから何処迄続くか判らない、死の行程をも乗切る可く互ひに励まし合った。…… 此の峠より十粁程行軍したら、佛印に入国して初めて見る部落が有った。 人家には人が住んで居る、其の家には灯がいて居る。 一つ国が変われば此んなに違ふものか、部落は如何にも平和そうである。 誰かが「ビールが有るぞ!」と頓狂な聲を出して居る。 今迄長い間支那大陸で戦闘をして来たが、村に家なく、家に人なく、真に不気味で殺風景な中での毎日に馴れて居た我等には、此の様な平和な国が不思議に思えて、夢ではないかとさえ疑はれた。 我等は、夜行軍でコンクリートの舗道を一気に行軍して、朝方になってドンダンに到着した。 此処から懐しくも珍らしい汽車に乗り、ランソンを経てフーランチョンに到着した。 此処で下車して休憩して居たら、懐しの本隊から迎えが来て居り、早速本隊の駐屯地ダップカウに向け主発した。 一時も早く本隊に帰りたい一念から南国の強い日照りで焼けているコンクリートの舗道の上を、軍歌を高らかに歌ひ乍ら行軍した。 ダップカウ迄の道程は八粁程であるが、此の間の鉄橋も、重要建造物も総て見る影もなく空襲や地上砲火で破壊され、無惨な姿を晒して居る。 此の三月に友軍が佛印部隊と交戦して大激戦の末、これを陥落させたばかりとの事であった。 私達は此のフーランチョンからダップカウの僅か八粁の行軍で、思はぬ体験をした。 それは、此の二年半ばかりと云ふものは、彼の広い支那大陸を駈け巡って、行軍して来たのにも拘らず、支那大陸の土の上を歩るくのと違って、固いコンクリート舗道の上を行軍するものだから、全員が脚を痛めてしまった。 此の一つの原因となったものには、本隊が近いと伝令を受けた我等は、あの固いコンクリートの上を、歩調を取って股(もも)を高く揚げ、軍歌をコンクリートの上に叩きつける様にして、軍歌の音を鳴らし乍ら行軍したのである。 まさしく「勇み足」と云ふ奴であった。 本隊に愈々到着すると、多数の出迎えを受けた。 遠藤聯隊長に到着の申告が終ると、一同は割り当てられた兵舎に着いた。 此の兵舎はフランス軍の使用して居たもので、建物は南国向きに建てられて居り、兵営はまるで公園を想はせる様に美しくて広々として居た。 初年兵も全員元気で、孝感を出発する時は初年兵の兵員百六十名であったが、今此処に無事到着した者の数は百四名である。 然し此の時の到着率は、師團各兵科の中、第一番の成績であった。 私の兵舎には、早速戦友が無事を祝って挨拶に来て呉れた。 宝慶戦で別れて以来の、四方八方よもやまの話しはお互ひに盡きる所を知らなかった。 私は長い間の責任感と緊張感の解放から、一時に気落ちしたのか? 早速次の日から病気になり、三日間絶食して、虫下しを飲んだら、忽ち効果覿面、眞白い蛔虫が一度に沢山出て来たのには驚いた。 野戦で何んでも食べるものだから、全員に蛔虫が寄生して居たのである。 此の後で、豊富なパイナップルの生の果汁を飲んだら、数十分程で元気に回復した。 此のパインの汁の効果も亦、顕著なものであった。 此処で、ゆっくり息着く暇もなく、部隊は近い中に更に南に向って転進を開始するとの事で、我々は初年兵に対し、戦闘に必要な教育や訓練をし乍ら、転進準備も同時に進めて行った。

     一九五四年 八月十四日                           旧暦盆十六日 故郷の盆踊りの太鼓の音を聞き乍ら久方に執筆する

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