轉戦記 第三章 転進南下②

列車は一路南下して、部隊はシャムの首都バンコックに到着し、此処で数日間を過した。 バンコックは絢爛華麗なるチャクリ宮殿が有り、蒙華な寺院が至る所に点在し、華僑が此処でも商業の主導権を握って居て、華僑街を発展させて居た。 学校も多いらしく、街では多数の学生を見受ける。 シャム人は山田長政の関係でもあるまいが、眞に日本人に良く似た顔をして居る。 特に女学生は素足でさえなかったら、日本人に間違ふ位いで、非常に人種的近親感を抱かせた。 然しバンコックの街角や、市街の要所要所、道路上に迄トーチカやバリケードを張り回らせ、実に物々しい厳戒態勢である。 まるで日本軍に対抗して居る様で、不気味さを感じる。 夜ともなれば、テロが多く滅多に外出も出来ない状態であった。 部隊はバンコックを、ノーイの間を流れて居るメナム河を渡河して、マレーに向け進軍する事になったが、此の渡河作業中に米国のB二十九爆撃機に空襲され、我が方は甚大なる被害を受けた。 渡河作業中はタコ壺を掘って居て、敵機来襲と同時に、夫々自分の掘った一メートル程の深さのタコ壺の穴に飛び込むのである。 敵機は一萬メートルもの上空から、銀翼を太陽の光にキラキラさせ乍ら、一頓爆弾をバラバラ投下して来る。 敵機がこちらに向って飛来する場合、爆弾投下の位置が自分の位置からみて、仰角三十度以下なら自分の位置の前方に着弾する。 三十度以上なら、自分の位置より後方に着弾する。 これが当時我等の常識であった。 高度一萬メートルもあれば、良く敵機の動向を見て居れば爆弾は避け得られるのだが、無数の敵機来襲では其の様にはいかない。 穴の中に出来る限り身を縮めて、爆弾の風を切って落ちて来る音で、近いか遠いか「感測」するより方法はない。 此の時私の直ぐ近くのタコ壺に居た戦友は、至近距離に被爆して戦死してしまった。 私は爆弾の音が「チーン」と云ふ音になった瞬間、自分の眼と耳を手の指で押えて、腹に渾身の力を籠めて「死ぬかな?」と思った。 天地も裂ける様な大音響と、叩き付けられる様な衝撃と共に、全身に土砂が降って来た。 私は直ぐ立ち上って隣のタコ壺に飛んで行った。 彼は既に爆圧で死んで居た。 彼のタコ壺の十メートル程の所には、直径五十メートル以上もある、クリークの様な大きく深い爆弾の痕が出来て居た。 メナム河を渡河して、マレー半島に進入するに連れて、敵のテロは益々激しくなった。次々と中堅幹部が、野営中に殺されて行った。 何んでも英軍がマレーの土民に、「日本軍人を一人殺せば幾ら」と、懸賞金を賭けて居るとのもっぱらの噂であった。 ワンボンの駅に着く迄は、汽車は田圃の中や山の中、至る所で休憩した。 其の都度、薪が燃料の汽関車なので、薪採りをしたり、水をバケツで汲み込んだりで、随分とスローモーは汽車の走り方であった。 ワンボン迄来たら、此の駅の直ぐ南になる鉄橋が、敵の空襲で傾いて居るので、此処で私達十五名の技術班を編成して、此の鉄橋の修復をする事になった。 敵機の来襲は益々頻繁であるから、昼間は敵機に悟られない様私達十五名だけで、修理の準備作業をして、夜間は歩兵部隊等の協力の下に河床に捨石作業をして、泥で軟弱な河底を石で固め、其の上に現地材の重いチーク材を井桁に組んで、傾いて居る鉄橋の桁の下部迄組み上げ、一週間程連続作業した夜の九時頃、機関車だけを人力で押して鉄橋を通す事に成功した。 我々は直ちに装備を整え、出発準備を急いで居たら、突如バンコックに向け反転せよとの命令が下った。 我々は「さては、シャムと一戦か」と思ひ、シャムと交戦する事になれば、バンコックには大きな商店もあるし、物資も豊富で徴発は意のままだと、一同大張り切りで直ちに反転行動を開始した。 部隊は途中「ホワヒン」で命令に依り、五日間滞在した。 ホワヒンは、フランス人の別荘地帯で避暑地らしく、南国の濃い緑色の樹の間に、綺麗な建物が色とりどりの姿を見せて居た。 我等は此処で毎日水泳を楽しんだ。 町田中尉は此処のフランス人の家のピアノで、私の作詞「追憶の盆」と「南進我等の歌」の二曲を作曲して呉れた。 此の歌は部隊内で非常に好評で流行した。 ホワヒンから汽車で再び反転を始めたが、途中「ラップリー」と云ふ駅で日中のみ下車したが、此処では珍らしくも、椰子の冷凍したものを飲む事が出来た。 熱帯地方で飲む冷凍椰子の味は、堪えられないもので、忘れられない味であった。 処が此処からバンコックに近か付くに従って、友軍か各駅々で屯(たむろ)して居り其の話では、「日本軍は戦争に敗けて降伏したらしい」と云ふ様な噂が専らである。 そう云えば近頃敵機が頭上に来ても、爆弾も投下しないし、銃撃もない。 駅の線路の上に腰掛けて、小銃の菊花の御紋章を削り落して居る兵もある。 我等は何か解からない不吉な予感に襲はれて、バンコックが近くなるに連れ、段々と元気がなくなってしまった。 私は、「理論的には勝てぬ戦争だ」と思っても、又その一面には子供の頃から受けた教育に依り、精神的には何んとなく「敗けると云ふ事はあり得ない事である」と、思ひ込んで居るのである。 その両者が私の頭の中を交錯して、何を如何に判断する可きかも解からなかった。 只次の神勅をふと思ひ浮べた。

           天攘無窮の神勅

豊葦原の千五百秋ちいほあきの瑞穂の国は、此れ子孫うみのこきみたるべきくに なり

宜しく爾皇孫就いましすめみまゆきてしらせ。 行矣さきくませ。 賓祚あまつひつぎさかえまさむこと當に

 天壞あめつちきわまりなかるべし。

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