轉戦記 第一章 北支編 一期の検閲前後①

運城は思ったより大きな街だが、戦地らしい殺風景な処だ。 有名な「塩池」は、中条山脈の下に真白に横たわって見える。

 私は入隊式の後、第二中隊より、第三中隊に編入され、土臭い土民住宅跡の兵舎に入れられた。私の班の教育係に、同縣出身の佐藤上等兵が居た。 野戦となると、内地より一層訓練が厳しい、毎日鉄拳の雨だ。 入隊早々の点呼後、一時に皆んなで走って小便所に用足しに行った処、同時に押しかけてつかえているので「グズグズして遅くなると亦、ひどい目に遭う」と思い、営庭の溝に「シャーシャー」とやっていたら、教育係に見つかって、地下足袋で頬を十二回叩かれた。 最初の七ツか八ツ位いまでは、痛いばかりだが、その後の方は温まって、ホカホカした様な気持になる。 然し、何か判らない残念さで、あとになって涙が出た。 教官は鹿児島出身の人で、少尉候補生上がりの少尉で、優秀で且、人格者だった。 此の教官から二カ月程教育を受けたが、聯隊の主力がニューギニヤに転進するとき、此の教官 寺師志津夫少尉も、主力を一所に行ってしまった。 三月六日 出発直前の夕暮れ、私は教官の部屋に呼ばれて、コーヒーを御馳走になり、写真を一枚貰った。 私は、別れが辛くて泣いてしまった。 此の教官から受けた感化は、私を大きく変えようとしていたのである。 聞けば、此の教官も健在で復員したとのころである。聯隊主力が出発した後、残留部隊は、師団工兵に改編された。 初年兵は各隊から一ヵ所にまとめられた。 人手不足で、私は教育の余暇に、計理に加勢に行く様になった。 主計が大分市出身で沈着冷静な将校だった。 此の池田直之中尉が、私を計理官にする様 教官に頼んだそうだが、教官が私を手離さなかったとの事であった。 計理に行くので、喰いたいものは勝手に何でも喰へた。 他の初年兵や 古年兵の教育係迄が、羨らやましがった。私は、野戦工兵として一人前になるべく、六か月間の中に、連結、土工、運搬、木工、漕舟、機甲、爆破等の教育を受ける傍ら、通信特業手として二か月間宛、二回教育を受けた。漕舟は、九十五年式折畳舟と云ふ優秀なもので中島飛行製作所製のエンヂンが取付式になって居た。 四月に運城から四里余の、解縣と云ふ所の湖で漕舟演習を三週間挙行した。 思い鉄舟や、錨、その他の漕舟具一式を列車に満載して運搬し、支那人街はづれの 硝池と云ふ塩池続きの湖の畔りにキャンプしたが、寒むい北支那の事とて、雪は連日降り積もり、極寒の中おも、ものかわ、手のひらの中、豆の上には豆を作っての猛特訓であった。 途中検閲に来た小久保隊長は、日頃八釜し屋で通って居る厳格な方だったが、流石にこの状態を見て感心して、お褒めの言葉を残して帰った。 私は、船の扱ひには子供のころから馴れて居たので、直ぐに一等漕手になったが 山出しの、初めて櫓を握る戦友は、仲々上手になれず、雪の浮いてゐる湖中に、班長から金槌や、鎹(かすがい)を落としては班長から叱られて、水中を泳ぐ様に地上を這い廻されて、拾ひに行かされた。 工兵の器材は、「歩兵の銃に相当する 大切な兵器である」。と云ふことから、資器材を大切にすることを教育するためである。 機甲は、実感を出させる為めに、地上に鉄舟を置いて舟の中に水を一杯に入れ、それにエンヂンを据付けて教育を受けたが、寒さの中での扱ひは、手が痛くて泣きたい様な辛さだった。 爆破訓練は、最も労力を要せず 亦興味深いものだった。 最終に教はった電気爆破は、特別に面白く 樹木に爆薬を仕込んで爆破する様は、壮観の極みだ。爆破は一歩間違えば、生命に関する危険なしろものだけに、皆んな必死でもあり、教育も亦一段と厳しく、仕損じがあれば食事を必ず一色絶たされた。 何んと云っても此の頃食事を断たれると云ふ事が、初年兵には何よりも打撃だった。 通信教育を受ける頃には、大体一期の教育も終りに近かったので、教育係りも、あまり入隊当時の様に制裁はしなく、むしろ初年兵の方からやり込められる位だから演習も面白い。 特に私達の係りは、東北出身のズウズウ辯の人柄の良い上等兵であったから、野外演習の多い此の訓練では、初年兵も勝手極まるものだった二、三名で、電話器をもち、叢(くさむら)に中に潜んで居て、通行する支那商人の果物や菓子をせしめては、昼寝して帰るのが毎日の日課だった。

 運城の塩池廟は、種々思出が多い。 同年兵が一期の教育期間中に、半数程別れてビルマ方面に転戦する時、お別れの盃を傾けたのも、此の見晴しの良い廟であり、執銃教練で突撃するのも此の廟城で、此の城に突込む頃は、誰もが大抵は真青になって、肩で激しく呼吸をしていた。 此の廟城から眼下に真白に広がる広大な塩池のつきる処、遠く中条山脈が絵の様に仰ぎ見られ、雄大な風景であった。 私は此処で写真を数枚撮って内地に送ったが、殆ど届いて居なかった。 一期の検閲を前にして盆が来た。 小雨降る土民の土で造った、土臭い住居を兵舎にした内務班で私は静かに故郷の盆を回想した。此の幾年かは、故郷を出でて他国で活(くら)して居たので、故郷の盆も忘れ勝ちだったが、今年は亡き父の初盆はと思えば感無量である。 私が運城に着いて一週間程すると、海南島から入隊迄の長旅の疲れがたたったのか、海南島時代のマラリヤが再発して苦しんで居た頃、病床に父の夢を三日も続けて見たので、父の安否を心配していた処、其の直後元気になって演習に出場し、その日は遅く終了して内務班に帰り、初年兵皆んなと月明りに照らして古年兵の軍靴を磨いて居たら、週番上等兵が故郷よりの第一信を持って来て呉れた。 兄、弥太郎よりの便で、父が福岡大学病院で、手術後心臓麻痺で死亡した事を知らせたものであった。 私は予ねて、予期して居たろは云え、衝撃は大きかった。 其の頃 初年兵の便りは、全部班長に検閲して貰ふ規則だったので、仕方なく私も検閲して貰ったら、忽ち中隊長や教官に知れ、慰めや、激励の言葉を受ける仕儀と相成った。 以上の様な経緯で盆を迎えて、私は遠く 故郷の空をしのびつつ、次の如き一詩を綴った。


追憶の盆

一、

幾年かは 瞼のみ浮べし

 故郷の盆 今亦来りぬ

其の様や如何に 

 今宵静かな 雨の音は

亡き父の聲に さも似て

 故郷の盆を運ぶ

追憶に耽け 想う瞼に

踊り児の姿や 送り火のけむり

二、

幾夏か 異郷の空で

 偲びつつ 盆を送りし

忘れしも 懐かしの踊り

 父も見ん 草葉の蔭に

我も亦 夢に画かん

 今宵の塒(ねや)に

哀悼の音頭を

けむたげな 初盆のままを


一九四三年七月十五日 於北支那山西省安邑縣運城

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