轉戦記 第三章 南方編 濱陽の変①

 羅金郷、柳州、と行軍して浜陽に到着した。 此の街は日本軍の治安隊は一應置かれては居るが、物凄な街で治安は悪るく、うかうか街を彷徨くと、敵のテロにやられてしまふ。 部落の家の中を捜して見ると、机の抽出しの中などから、銃弾が幾らでも出て来る。 しかも鉛製のダムダム弾だ。 城内は却って危険なので城外に宿営して居たら、治安隊の連中が来て 「此処から一二粁程奥地に行けば、一個聯隊が有に三年間は食べる程の、食糧豊富な部落があるので、徴発に行くなら案内してあげる」と態々知らせて呉れたので、此れ幸ひとばかり、三十七師團初年兵追及部隊長である、長門大尉直接指揮の下に、翌朝三時、馬で来た治安警備隊員の案内で一同宿営地を出発した。 然し此れは後になって感付いたのだが、警備隊は自分の警備地区を、苦心して幾ら治安維持に努めても、我々戦闘部隊が一度通ると、まるで台風一過の跡の如く荒らされてしまひ、警備隊は其の都度、現地良民との間にあって苦労が絶えないものだから、その鬱憤が我々をわざと敵地区の中に連れ込んだものであった。 案内の警備員は、目的地に着かぬ内に、途中からさっさと帰ってしまった。 第一番目に進入した部落は、もぬけの殻で、何一つなく、夜も明けてしまったので部隊は各兵科毎に分かれて、各々違ふ部落を探す事になった。 我等工兵隊は、広々とした田圃の中に城壁に圍まれてある部落に向ひ、一應威嚇射撃をして見たが何の反應もなく、城内はひっそりとしたものであった。 我等は連日の行軍の疲れと睡気ねむけも加わって、油断したまま静静と田圃の畦道を城壁に向って進んで行った。ところが、此の地で遂に云ひ得ぬ大悲惨事を引き起こしてしまった。…… 私は此の惨事に関しては特に忘れぬ中にと思ひ、此の転戦記録を書き始める以前の、一九四七年九月十日に記録して置いたので、これをそのまま此処に転記する。……

 此の世の音とも思はれない様なドラの音は、ひっきりなしに城壁内で鳴らされている。 空腹な身体にぢんぢんと沁み渡る様だ。 敵が投げて来る手榴弾の爆発音は、ひきもやらず、目前十メートル位いの所で眞赤な火を吐いて炸裂する。 虫が鳴く、蛙が不気味に騒ぐ、敵弾に傷着いた戦友は或はうめき、或は無念の余りに悲痛な聲を振り絞って戦況を問ふ。 此処は南支那桂林の北濱陽の南方十六粁の地点、敵地区である。 昭和十九年の末に入隊した初年兵を、前線の本隊に連れて行く為めに、連日連夜の強行軍で追及を続けて居る、第三十七師團初年兵部隊である。 此れを引卒する初年兵係りは、全員が師團選り抜きの優秀なる強者ばかりであるが、後方より一切の補給を絶たれて居る此の部隊は、毎日の宿営地で食糧類の一切を、泥棒以上の徴発に依って求めなければならないのである。 今日も早朝より、連日に亘る強行軍に疲れ果てた身体を引摺ひきずる様にして、濱陽警備隊員の案内に依り、一個聯隊を三年間は有に養ふ事の出来る物資の有ると云ふ地点迄来たのだが、部落には何一つなく、猫の子一匹居ない状態である。 警備隊は、我等を何かの感情から陥し入れたものなのか?何時の間にやら姿を消してしまって居る。 長門大尉を大隊長とする初年兵追及部隊中の主力部隊は、予定の物資がないので、各兵科に分かれて此の附近の部落の捜索を開始した。 我が工兵隊は、約百名の兵を三個小隊に編成して、大隊長の指示された城壁に向ひ、第一、第二、第三小隊の順序で各小隊の感覚を五十メートルの距離に置き、目的の田圃の中の城壁に向ひ、巾三十糎余りの畦道を進入開始したのは、午前九時近くであった。 城壁の手前二百メートル程の地点より、部落に向け発砲して見たが、何んの反應もないので安心して進入を再開した。 第一小隊の殆んどの全員が、部落の城壁に添って併行して居る道路上に、一列縦隊になって行軍して居る状態になった時である、突然!実に突然であった。 一斉にドドドドドンと小銃の音が、あたりの静寂を破って轟き渡った。 瞬間我等はその音が、敵のものであるとは感ぜられなかった程、安心して行進して居たのだが、第一小隊長江島准尉以下バタバタと将棋倒しにたおれるのを見て、漸く「シマッタ!」と感じ、反射的に直ぐ横に折良く有った、土塊の影に身を遮蔽した。 第二小隊の殆んどの兵は、敵弾を避ける為に利用する地形地物とて何もないので、三十糎程の高さに伸びて居る稲の中に飛び込み、田圃の泥の中に全身を埋める様にして伏せてしまった。 第三小隊は遥か後方に、地物を利用して伏せの姿勢を執って居るので、これは先ず安全だと云っても良い。 然し第一小隊は全滅だ。 第二小隊は二進も三進もならない、少しでも動けば射撃される。 敵は城壁に設けて居る無数の銃眼より、猛烈に射撃して来る。 城壁の眞下の第一小隊の負傷者は、「小隊長殿!」「班長殿!」と、悲痛な聲を振り絞ってもがいて居る。 全員腹部の近くをやられて居るらしい。 江島小隊長は太腿部をやられて居るらしく、立ち上げる事も出来ず、無念そうに拳銃で自殺しかかったが、寺園軍曹がしきりに此れを止めて居る。 既に息絶えて死んで居る者もある様子である。 此等を目前にして、何等施す術さへもない。 指一本動かしても、敵の集中射撃を浴びるのだ。 夜蔭に至る迄現状を維持する他はない。

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