轉戦記 第三章 南方編 羅金郷の戦闘

 霊川を経て、山又山を行軍する第三十七師團初年兵追及部隊は、山道を下りかかると、眼下に桂林が見えて来た。 桂林は至る所に、百メートル程の高さもある岩石で出来た天然の独立した塔の様な大きな岩石が、無数に林立して居る。 絶壁の岩石のニョキニョキ立って居る中を行けば、まるで海底を歩るいて居る様な気持になる。 驚いた事には、此の岩の塔は中を掘り抜いて一つ一つが、トーチカになって居り、まるで要塞である。 友軍は宝慶攻略の後、此の桂林を攻撃して、陥落させたのである。 我が三十七師團も嚇々たる功績を挙げたとの事である。 此の岩の塔や、地形から見ても、攻撃は困難を極めたものと想像される。 岩の塔の間を通り過ぎると桂林市街だ。 B二十九爆撃機の飛行基地は実に広大な飛行場だ。此の飛行場の随所に、友軍に爆破された無数の敵機が、残骸を晒して居る。 行軍する道路の両側には、敵の戦死体が行け共行け共、幾萬共計り知れぬ程転がって居る。 この屍臭は、人間特有の嫌な臭さで、何時迄たっても、鼻からその臭気は消え去らない。 戦闘後、まだ幾旬日も過ぎていないのであろう、死体は体内にガスが充満して、普段の倍以上にもふくらんでおり、皮膚の色は黒ずんで目は張り裂けんばかりに、大きく見開いて居る。死体がなくなる所まで前進して、この鼻持ちならぬ死臭のない所で、昼食する予定であったが、幾ら行軍しても死体は盡きないので、屍臭の漂ふ道路上で昼食をした。先に、長沙の炭唐子で渡河作業をし、本隊を追って、湘潭迄強行軍をした時に、友軍の輜重隊が敵機の空襲に遭ひ、夥しい馬匹や、車輛が道路上に無惨な姿を晒して居た。 馬は矢張り体内にガスが充満して、普通より倍以上にも大きく脹れ上がり、四ツ足は天空に向け、真直ぐに延ばし切って、つっ立って居り其の屍臭も、一度鼻に附いたら、数日間は消えなかった程であった。 人間の屍臭はそれと違った、一段と嫌な臭いである。 桂林はも早既に南支那である。 此の地方の広西人は、支那人の中でも特に気が荒い。 近頃は空襲だけでなく、余程の注意をしないと、地上の敵襲にやれれてしまふ。…… 数名を連れて、本隊から先抜として到着したのが、羅金郷と謂ふ部落であった。 時刻はまだ日も高い午後の三時頃であった。 今日は此処を宿営地にする事にしたが、何んとなく不気味な感じがする。第六感と云ふ奴である。 部落は静まり返って人影一つない。 周圍の地形も何んとなく気に入らぬ。 何処からか、誰かに見詰められて居る様な気がして、奇怪と云ふ他はない。 初年兵の一人に小銃を持たせ、私は手榴弾を一発だけ携行して、二人で部落の直ぐ裏の塔の様に高い岩の下を通り、その裏側にあった一軒の人家迄偵察に行った処、二名の支那人の男が居た。直ちに此れを捕えて、初年兵に看視させ、私は此の家の中の様子を見廻って居たら、看視中の支那人が一名逃走してしまった。 初年兵には無理な事ではあったかも知れないが「これは危ない!」と感じた私は、直ちに此の家にあった鶏卵等を、初年兵に持たせて家の前の土塀から出ろうとしたら、突然敵から射撃を受けた。 見れば、今通って来た部落裏の岩の塔の上から銃撃して居る。 危険此の上ない。 「部落に残して居る数名の兵が危ない!」私は咄嗟に家の裏側に廻り、木材を積み上げて、此れを足場に高い土塀を乗り越えて、敵弾の中を地形を利用し乍ら、近くの松林の中に初年兵と一応退避した。 ところが此の松林の中に、他の戦友が一人矢張り私と同じ考えで、地形偵察に来て居たのとぶつかった。 我等三名は此処で綿密な打合せをし、敵の潜伏位置を確かめて部落に帰った。 夕方近く本隊も到着したので、此処の状況を報告して、此の夜は、厳重な警戒を怠らず其のまま此処に宿営した。…… 早朝部隊は行軍体形を整えて、いざ出発しようとした瞬間、岩の塔の上や山の松林の中から、敵弾が飛んで来た。 すると、それが合図であったかの様に、忽ち四方から軽機関銃を含む敵弾が、雨、霰の如く飛んで来だした。 此んな所で無意味な戦闘をして無駄な時間を費やしては、至上目的の本隊追及が遅れるばかりだが、行軍を始めようにも一歩も前進出来ない程、敵の攻撃は激しいので、止むなく戦闘を開始した。 敵は此の一晩の中に充分な攻撃態勢を整えたものと見え、我が方は完全に敵に包圍されて居る。 其の上敵は、地形地物を利用して攻撃して来るので、我が方は不利な条件ばかりだ。 これに加えてこちらは初年兵部隊だ、思ふ様な戦闘が出来る筈がない。 広い平坦な畑の中に、敵の軽機関銃の弾道がある。 此の弾道を、どうしても通さねばならない。 初年兵の一人一人に、よく注意して一人宛突破させるのだが、弾道を通過する際、足下に敵弾が「パッ!パッ!」と土煙を上げて飛んで来ると、「どんな事があっても、そこでは止まらず全力で走れ」と教えてあるのに、一番危険な弾道に「バッタリ」伏せてしまふ。 大聲で怒鳴られて、漸く立上って走って行く。 背嚢も重いが、その動作はそれ以上に重い。 此んな状態での戦闘だから、散々な目には遭ったが、我が方は若干の軽い負傷者程度の被害で済んだ。 多数の敵を捕虜としたので、戦闘の終った後で、初年兵に銃剣術の実戦用にと、捕虜に向ひ突撃させて突かせて見たが、捕虜の直前迄来ると「ピタッ」と立止まってしまひ、眞青な顔をして「ハアハア」肩で息使ひをして居るだけで、完全に銃剣で突き刺せる者は、一人も居なかった。 岩の塔の上の敵は仲々手強い奴で、他の連中が盛んに攻撃して居たが、遂に陥落させ得なかった。

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