轉戦記 第二章 中支編 炭唐子の渡河作業①

 中支那の夏は 風一つなく 南方の暑さと違った、不快な暑さだ。 眞夏の眞昼の暑さに加えて、南京より 漢口に向ふ汽船の船室は、臨時作りのものらしい。 段々の棚で、床から天井迄仕切られ、まるで鶏舎の様だ。 此の棚の中に詰め込まれるのだから、暑くてやり切れぬ。航海中は、敵機の爆撃にも遭わず、揚子江に流されてゐると謂ふ、敵の機雷にもやられずに済んだが、至る所の水面には、敵機の爆撃で沈歿した汽船が、マストやブリッヂを見せて居た。漢口に着いて 兵帖に、光部隊の消息を尋ねに行ったら、揚子江の対岸の武昌に居るとの事である。 直ちに連絡船にて武昌に渡り、本隊を探した処、漸くにして 懐しの本隊に追及する事が出来た。 先ず中隊長に、到着の申告に行った処「本隊は明朝を期して、直ちに次の作戦行動に移る」との事であり、七月一日附で 兵長に昇進した事を傳えられた。 兎に角一足違ひで、追及出来た事を喜び合ひ乍ら、戦友の加勢で 完全装備も出来た。 此の日の夕刻になって、私と同郷の薬師寺清蔵氏が、尋ねて来てくれた。 彼は私の二年先輩で兵器勤務隊に所属して居るとの事であった。 大変懐しく、盡きぬ話をし乍ら、支那酒を酌み交し お互いに、前途の無事を祈り合った。 明くれば一九四四年 七月二十八日、炎熱焼くが如き中支那の野には、あらゆる悪性の疫病が発生して 此れが為めに、幾萬とも知れない軍人の尊ひ命を奪ひ去った。 我等の部隊も、数え切れぬ戦友が、次々と病魔に冒されて、隊列を去って行く。戦闘は日増しに、熾烈さを加え行軍は毎日、行程を延されて行くばかりであった。 砂塵吹荒(ふきすさ)ぶ長安を過ぎ、岳陽附近に至る頃からは、敵機の空襲を避ける為めに 眞っ暗くて、皆目先も見えぬ山中や、濕地の中を、夜行軍で進んで行った。 或る時は、胸迄もある深さの激流の川を渡河したり、雨の降りしきる中を、山中の松林の中に寝たり、その苦労は到底筆舌で盡せるものではない。長沙の附近の炭唐子に着いた時に、此処に大きな河が有るので、桑本少尉を小隊長とする我等第一小隊は、本隊から分かれて此処に残り、我が光第三十七師團の全部を、渡河させる可く命ぜられた。 此の頃には、敵機の空襲は益々激しくなり、予め 日本軍の渡河地点を、此の附近と察知して居た敵は、日本軍の渡河地点を探すべく、毎日 毎夜、飛行機による偵察に余念がなかった。 若し渡河地点を敵に知られる様な事にでもなれば、渡河中に爆撃を受け、多大の戦力を失なふ事となるので、我等工兵に課せられた任務は実に重大であった。此の為めに、桑本小隊長以下全員 素っ裸となり、夜暗を利用して 手早く棧橋を架け、渡河作業を一晩中続行し、夜明け前には、折角架けた棧橋を撤収して、敵機の発見を防ぐと謂ふ作業を、一週間程繰返し繰返し続けられたが、心身共に極度に疲労して、自分で自分が、わからなくなりそうであった。 今夜渡河作業をすれば、全部隊の渡河作業が 無事完了するので、明朝は渡河作業完了と同時に、出発前進と謂ふ日であった。 睡眠不足で眠むいのをこらえて「最後の日だから、何か徴発して御馳走をしよう」と、初年兵を含めて十名余りで、奥地に向って徴発に出かけた。 六粁程山奥に入り込んだら、三方山に圍まれた山間の小さな盆地に部落があり、此処で、何かお祭りらしい事をやって居るらしいので、敵兵が居るかも知れぬと思い、様子を見る為めに、部落に向け小銃を数発 発砲して見たが、別に何の反應もないので全員一気に、部落内に突入した。 部落民は、三方の山に向って逃げ去り、民家の中には お祭りらしい御馳走と支那酒が、テーブルの上にそのまま残されて居た。 我等は、その酒類や戸外に居た牛を一頭分捕り、此れに初年兵を番兵として附け、此の場所はら動かぬ様指示し、他の者は二組に分かれて、更に奥地の部落に物色に行く事にした。 私は、古年兵の上等兵二名を連れ、他の一組は菅原上等兵が初年兵を一名連れて、別々の方向の部落に向って進んだ。 此の菅原上等兵とは、宝慶戦迄ずっと一所で行動を共にしたが、私とは特に気が合い、日頃何かと私に過去の話しをして聞かせてくれた。 彼は召集兵で入隊して来たのだが、正義感の強い、勇敢な男で、又潔癖な心の持ち主であった。 私は三名で谷間を進んで居たら、三十メートル程山の上の方を長い物をかついだ男が一名、スーッと走り去ったのを、樹間に一瞬見たので、「敵の便衣隊が、小銃を擔いで居たのかも知れぬ、これは危険だ」と思ひ、直ちに山の稜線を進む事にして、警戒し乍ら奥に進んだ。 間もなく、谷間に小さな部落を見つけたので、此の中の大きな家を選んで、中に入って見たら家の中には何一つなく、全部持ち去って居る。 此れは、日本軍に対する処置ではなく、戦国騒乱の巷支那は、日本軍はおろか、支那人同士のあらゆる敵に対しての自警の態勢を、執って居るのである。 何にしても、此の立派な民家の建物にしても、此の用意周到なる事を見た丈でも此の村には、相当の傑物が居るか、或ひは、強力な自警團が有るかに違ひない。 「これは危険だ!」と感じた私は、直ちに、初年兵一同を残して居る後方の部落に、引き返しにかかった。 と、同時に、二方の山の頂上より、一斉に小銃の音が響いて来た。 初めの一瞬は、分かれて行動して居る菅原上等兵の組が発砲して居るのかと思ったが、我等に向って射撃して居る。 正に危険な状態に陥入って居る事に気付いた私は、直ちに、附近の小高い松山の頂上に登り、軽機関銃を携行して居る上等兵に、射撃する様傳えたが、彼は軽機を据付けて射撃の態勢をして居るだけで、一向に射撃をしない。 「何故撃たぬのか」と、尋ねた処、彼は「大した敵も居らぬ積りで、弾丸を二十発しか持って来てない」と心配そうに言ふ。 戦闘に馴れ過ぎると、却ってよくこんな失敗をするものだ。 仕方がないので二名の上等兵には、「奥地に向って逃げ、遠廻りして小隊に帰り、救援を頼んでくれ」と傳えた。 二名の古年兵は、奥地の方に向ひ走り去って行った。 同行の二名は逃がしたが、後方に残して来た初年兵ばかりの組が心配になるので、その方に引返えそうと、谷間に降りた処、小さな岩山の直ぐ裏側で、突撃の喚聲がして来た。 私に対して、敵がやって居るのだ。 私は、最後の覚悟を決意した。 若し敵が近づいたら、携帯して居る二個の手榴弾の中一発を敵に投げつけ、残る一発で自爆する考りで、敵の来るのを待ち構えて、十分間程であっただろうか、随分長い感じの思いで待ったが、敵は「ペチャペチャ」と騒いで居るばかりで、僅か三十米程の岩山を狭んで居るばかりなのに、一向にやって来ないので、私は谷間より躍り出て、六十米程先に見える初年兵の居る部落に向って走りかけたら、一斉に敵の集中射撃を浴びて、一歩も進めなくなった。 此の平端地に、巾五十糎、高さ十糎程の小道が有ったので、此れを遮蔽物に利用して伏せ、山頂の敵に小銃の照準を定めて應戦した。 此の為めに、敵の射撃が一時小止みになって来た。 機を見て、飛び出そうとして居たら、後方の岩蔭から菅原上等兵と同行の兵が、聲をかけて来た。 私は、「危険だから、此処には来るな」と怒鳴ったが、後に佛印の戦闘で、肉弾で爆薬と共に、城門爆破した男だけに勇敢に躍りでて、私の横に身を伏せて、一所に射撃を始めた。 

     一九五一年 七月八日 津久見市制施行記念及港祭りの雨の夜記

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