轉戦記 第一章 北支編 和尚橋の払暁戦

和尚橋と謂ふ部落に到着したのが、丁度昼頃であった。 私達工兵一ヶ中隊と、歩兵の機関銃一個分隊だけで本隊から先遣されて、此の部落で本隊の来るのを待ってゐたが、本隊は後方で宿営する事になり、一同喜んで久方ぶりの休養だと謂ふので、一同揃って五里離れた地点迄徴発に出かけた。 此の附近は敵がウヨウヨしてゐるので、少数の部隊では行動出来なかった。着いた地点で食糧を物色中、怪しい支那人を二名捕まえたので、連れて帰り調べたが、大した奴でもなさそうなので釈放してやった。 そしてその夜は夫々徴発品で御馳走を作り、久々にかめ風呂で体を洗い、さっぱりした気分で休まうとしてゐたら、中隊の曹長が「今日の二名は釈放するんではなかった。 我が中隊の少数な兵力を敵に知らされたら、敵は今夜にでも夜襲して来るかも知れぬ。」と心配してゐるので成程と思い、一同萬一に備えて武装して戦闘体形のまま休む事にし、一所に来てゐる歩兵の機関銃分隊には、部落の入り口の、木橋の袖の所に配置に着いて貰って、銃を抱いたままゴロ寝をした。  一九五〇年 一月五日記

敵の逃げ去った支那家屋の土間に、一尺程の高さに板を敷き並べて、その上に連日の戦いに疲れた身体を横たえてゐる兵の寝息は、これが明日をも知れぬ運命の下に、敵地に縦横してゐ者かと、疑はれる程の安らかさであった。 私も思はず深寝してしまった。 すると明け方の六時頃であった。丁度敵襲の夢を見て驚いて飛起きたのと、現実に敵襲に驚いて無意識の中に戦闘は一に就いたのと、何れが眞実か解らなかったが、目前に我が方の幾倍ものおびただしい数の敵に包囲されてゐる事実を見て、初めて眞実である事に驚き、眼をこすった位であった。戦場では屢々此の様な夢に続く現実に遭遇する。 一寸先も判らぬジャングル内の夜間行軍中に、ついウトウトと眠ったまま行軍してゐて、大きな穴のある夢を見て ハッ!と眼を開けて見ると、峻嶮な断崖の縁で、危ふく踏み止まって居てびっくりさせられたり。 眠むったまま行軍してゐる兵が 休憩も出発も無意識の中に、然かも命令通りに確実に行動して居たり。 其の他戦場でなければ測り知る事の出来ない、神秘が数々あった。 それは全神経を戦闘のみに打込んで居るからであって、其んな時にはよく小説に書いてある様な「まどろんで故郷の夢を見る」等と謂ふ暢気な境遇ではなかった。 たとえ眠ってゐても、見る夢は現実と続く夢ばかりであった。 我等を包囲した敵は少数と侮ってか、珍らしくも勇敢に我が宿営地の中迄も突込んで来た。 家の両側の角から、或いは土塀を狭んで、と云ふ風な激戦が続いた。 我が方には火砲がない。 唯一の頼みは歩兵一個分隊の所持する重機関銃のみだ。 然し 一基位いの重機関銃にひるむ様な少数な敵ではない。 我等は直に工兵らしく、爆薬をもって戦闘する事に決心をした。 黄色火薬一個百グラム入りのものを、二キログラム宛に梱包して、爆薬投擲器の鉄製の円筒に黒色火薬を入れ、引抜門管により点火して、この爆薬を敵中に打込んだ。幸ひにして一発は敵の眞只中に命中、一発はその附近の電柱の近くに落ちたが、物凄い威力と爆発音を発したので、此れに驚いた敵は一散に後退してしまった。 此の投擲器に点火する際は、引抜門管の脚線を三メートル程離れて、伏せの姿勢で引っ張って点火するのだが、非常に危険な作業である。 此れを作業した石田三次曹長は、冷静にして、沈着、剛膽、よく工兵としての技術を遺憾なく発揮したものであって、あの時の英姿は未だに目に焼付いて離れない。逃げる敵を追ふ程の兵力も装備もないので、其のまま厳重に警戒しつつ本隊の到着を待った。 歩兵の監視して居た橋の対岸の道路は堀割して出来た道路で、その道路の両側には五十名程、縦隊のまま枕を並べて死んで居た。 友軍の歩兵の重機関銃で、殆んどの敵兵が腹部を貫通されてゐる。 二列縦隊に並んで来る敵兵に、実に正確に銃火を浴びせたものである。 我らは新らたに歩哨の任務の重大なる事を痛感すると共に、此の剛膽機敏なる歩兵に、心から感謝した。 我方の損害は僅かに、二名負傷したに過ぎなかった。日本軍隊の肉弾戦は如何に強いかと云ふ事は、此れによっても知る事が出来るであろう。 本隊が急を聞いて馳せ着いた時は、既に三時間にわたる激戦も終えて、兵器の手入れに余念のなかった昼頃であった。聯隊長は厚く其の功を称え、且、労をねぎらって呉れると同時に次の攻畧地点、許昌に向け本夕刻より行動開始の旨、命令傳達した。 我等は直ちに行動を開始した。 此の許昌迄の攻撃行軍は、数多い戦闘の中でも忘れる事の出来ぬ程、纏まった部隊の行軍の競争であった。 言はば、行軍大運動会とでも謂ふべき壮観なものでもあった。 暗夜の山中を、或は炎熱、灼くが如き眞昼の曠野を、歩兵、重砲、山砲、輜重を初めあらゆる陸軍の兵科の戦闘部隊が競争で、許昌へ向って土煙りを上げて驀進した。 許昌攻略の前夜、我等は羊羹と酒二合宛つもらった。

 一九四四年 五月一日、我等工兵隊の決死の肉迫攻撃により、城門爆破は見事成功した。此の爆破された城壁の大穴より歩兵部隊が勇敢に突入し、空からは友軍機が猛爆撃を加えたので、さしもの頑強な敵も一溜もなく退却してしまった。 逃げる敵には、虎と名を持つ戦車部隊が、此れを猛追した。 我等は引続き其のまま、畑の中に散在する敵を追ひつつ許昌から西方六五粁の敵の拠点、臨汝城に突入した。 然し此処では既に、敵は雲を霞と逃げてしまった後で、ガランとして人影すら見当らなかった。 我等は此処ではアメリカ人経営のものらしい病院に宿営したが、見苦しくも慌てて逃げた後が乱雑に取乱とりちらされたままで、アメリカ人の写真等が散乱して居た。 此の宿営地で予期せぬ食中毒騒動を起こした。 食事係が食用油と間違えて、何油とも知れぬ油で天婦羅を作り、一同此れを食べた処、中毒症状を起こし一同大騒ぎをしたが、幸ひにして大事を起こす迄には至らなかった。 私は天婦羅は大好物だったのだか、何うしたものであったのか、此の時は喰わなくて、無事に事なきを得た。我等は此処の宏大な畑を利用して、友軍機の発着場を作る可く工事を始めたが、工事着手後僅か三日で別命を受け、工事中半にして更に前線の嵩縣に向って行動を開始した。 此の頃から北支那の戦野も漸く雨期に入り、毎日毎夜、雨の中を不眠不休で強行軍をしなければならなかった。 夜行軍で部落内を通る時、大木の繁みの中から郭公が「カッコーカッコー」と不気味に鳴く、兵は静粛行軍で、帯剣には布切れを巻付け、軍靴には嵩繩等を付けて音を立てぬ様にし、足音を忍ばせて聲一つ立てずに黙々と行軍する。泥寧膝をも歿する中を、或ひは又濁流の氾乱する川の中を、三人、五人と肩を組合っては渡る。 部隊長は、兵の疲労の極度に達した頃を見計らって、部落に休憩をさせる。 兵は何よりも真先きに手当り次第に燃え易い物を燃やして、濡れて重くなった被服類を乾燥させる。 寝る暇もなく、被服が乾くのと飯盒の飯がどうやら出来上がるのと同時に又出発だ。勿論適当な部落のない場合は、野の中、山の中、所を選ばず休憩する。雨降りの場合には水の中に寝るよりまだ悪い。 びしょ濡れの草の中又は木の下に、大聲で命令傳達の「休憩」の聲の終り切らぬ中に、背嚢を背にしたまま「どん」とひっくり返って寝息を立てて眠ってしまふ。 それ程迄に兵は眠りに餓えてゐるのである。 春店街、劉店、伊陽を経て恵明山を越え、目的地、嵩縣に到着したが、既に嵩縣では敵も四散して逃げ去った後で、何事もなくゆっくり一日休養した。

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