轉戦記 第4章 終戰編 罪罰昏迷

 統卒の本義に則る為めか、軍紀の要道か、此の頃地下に大きな穴を掘って、此の上に丸太を並べて頑丈な柵を作り、此れを重営倉として、昔日通り規律を犯した者を罰して、此の中に入れた。団体生活を営む以上は、軍隊であるなしに拘らず、規律を守らねばならない事は、当然の事では有るが、此の重営倉の中には、高級幹部の個人的軋轢や、感情問題が絡んで、入牢させられる様な事件もあり、部隊内でも批判が起こり、問題になると云ふ様な出来事も有った。                               

 私は嘗て初年兵と共に、仏印のダップカウの本隊に追及したのが、一九四五年五月一五日だったが、此の日に一月三十日付で、陸軍伍長に昇進されて居た事を知らされた。伍長と云ふ低い階級で、高級将校の意図等、到底測り知る事は出来ないが、此の頃の高級将校の頭の中には、敗戦後の部下の統卒と云ふ、困難な重責の使命感は、勿論あったであろうが、それ以外に、自己の地位と、威厳を部下に対して、失しないたくないと云ふ、職業軍人的意識が、潜在して居た事は、否めない事実ではなかろうか。亦此の頃、敗戦軍人の悲哀を、痛切に想ひ知らされる事件が有った。其れは連合軍が日本軍に対する、戦争中の報復措置であった。我等の戦場であった支那及仏印等に於ける、連合軍側の軍人及非戦闘員に与えた、虐殺及虐待に対し、面体検査が行なはれた。大規模な作戦の下に、広大な地域に亘って、生死を賭けて戦闘をして来た軍人に、神や仏の如き行為ばかりで、過ごせる筈がない。誰一人として、一抹の不安を感ぜぬ者とてなかった。面通しの日が近か付くに連れ、忽然と戦友にも告げず、静かに淋しくも姿を消して行く者が、次々とあとを断たなかった。歩兵部隊の少佐であった某大隊長は、仏印の戦闘に於ける行為の罪で、フランス軍に連れ去られ、間もなく処刑されたと伝えられた。嘗て私も支那の戦場で、工兵一個小隊で此の大隊長の下に配属された事が有ったが、此の少佐の、武田信玄の「風林火山」を想起させる戦法には、畏敬の念を感じていた。我等軍人は、日本国民の三大義務の一つである徴兵の義務に因って兵役に服し、命ぜられるままに、戦闘をする「意思なき人形」に過ぎないのである。世界を挙げての人類の戦争には、敵味方の別なく軍人は皆、同等の条件と運命の下に、忠実に戦闘を遂行したに過ぎない。戦争を終結した今日、軍人に対して、罪とか罰とかがあり得る理由はない。若し戦争に対する刑罰をあくまで問ふとするならば、此の世界戦争を惹起じゃっきさせるべき原因を作謀した、世界各国の主謀者をこそ、喚問すべきではなかろうか。 

 我が光兵団の師団長は長野中将に替って、此の年の四月から佐藤賢了中将であった。佐藤師団長は、東条内閣時代に軍務局長の要職に在った方で有り、当時国会の議場で「黙れ!」と一喝した事で、「黙れ賢了」と異名を取った程の傑物であった。此の師団長も、戦争犯罪人として、連行されてしまった。師団長は部隊を去るに当り、師団の将校を一堂に集め、「自主両輪の如し」との言葉を残されたとの事である。佐藤師団長の胸中には、「自分は処断されるであろうが、生き残った軍人は、日本に帰還したら、お互ひに一致団結して、祖国を再建して貰いたい」との悲願が秘められて居たものであろう。我々は今更の様に、戦争に負けた無念さと、敗者なるが故の悲しみを押さえ切れなかった。眼を焼くが如き痛みと共に熱い涙が溢れ、嗚咽はこらえ切れずに慟哭となって、堅く結んだ口を破って洩れ、押し殺すが如く泣いた。  

 一九四五年十一月三日、明治節の日、聯隊から選任されて、私と牧常信戦友の二名は、第三十七師団特別教化隊の要因として勤務する事になり、教化隊に転勤した。此の特別教化隊と云ふのは、別命拘禁所とも呼ばれて居た。刑務所と同じ性質のものである。 此処には、師団の中で罪を犯した者を入れるのだが、入牢して居るのは、主として知能犯や思想犯で、然かも其の殆んどが上級階級者であった。此の犯罪人の呼ばれる人達を、堅固に造られた土牢の中に監禁して、此れの監視と教化をすると云ふのが、我等の任務であった。監視はするが、教化等毛頭する気にはならなかった。大体此の外国の僻地に在りて、然かも長い間苦労を共にして来た同志として、又我々自体が、連合軍からどの様な処分をされるのかも判らない状況下にあって、同じ日本人を、七年とか、十五年とかの刑罰に処して、土牢に入れたりすると云ふそのものが、我々にも不快で有る。ましてや、投獄されて居る者は非常に残念がっていた。ある頭の禿上った少佐は、「出獄して内地に帰ったら、代議士に打って出て、必らず此の怨みを晴らしてやる」と歯軋りして居たし、又部下の失敗の責任を執って入獄して居た若い中尉は、入牢以来一言も発せず、食事もロクロク摂らず、黙想座禅で狭い土牢の中で、毎日を過ごして居た。又或る日の事、或る軍曹が入牢して来た。彼はトラックに、武器弾薬を積み込んで逃亡中に、トラックのタイヤがパンクをした為めに捕らわれたのであったが、此の土牢の頑丈な格子を破って、又もや逃亡してしまった。我等は命に依り彼を探しに出動したが、見つかる筈がなかった。彼を探し出して捕える様な、立派な心がけの?教化隊員は只の一人も居なかった。此の教化隊勤務中に、師団の各隊対抗の相撲大会があった。私も教化隊の選手として稽古をして居たが、大会直前に、砲兵隊に練習試合に行き、敵の大将と取組んだ。私は相手を土俵際で、投げの体勢迄持ち込んだのだが、相手が大男で、その重さの為めに、右足第一指を捻挫して、大会出場は出来なかった。その時の敵の大将の体重は八十五瓩、私は五十七瓩であった。大会当日、びっこを引き引き観戦に行ったら、会場で同郷の江藤繁治氏に逢った。彼は同じ師團の師團本部勤務で、此の大会に選手で出場して、見事個人優勝を成し遂げて、賞品に焼酎十本を貰ったとの事であった。終戦後第一回目の正月が来た。教化隊でも、南方の正月らしく、褌一つの裸で汗を流して餅搗きをし、此れを受刑者達と分ち合って、細やか乍らも正月気分を味はった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?