轉戦記 第一章 北支編 盧氏挺進隊④

 「起床!」「戦闘出発準備!」の聲に飛起きて、朝食を焼餅しょうびん(メリケン粉を揑ねて油で焼いたもの)を喰ひ乍ら渡河点に向って進む。 今朝五時を期して、盧氏城門爆破に行った我が工兵隊は、見事其の目的を達成し、歩兵部隊は既に城内に突入し、勇ましい砲聲、銃音が聞えて来る。幾旬日に亘行軍の疲れも苦るしみも、一時にフッ飛んだ。 早くも戦闘意慾に燃え立って、血は沸き肉は躍る。 渡河点は予想に反して徒歩で渡れる程の深さだ。 それでも流れが早いので、三々五々肩を組んでは、胸の辺迄水に浸って渡る。 渡河を終えて城門迄の道路上、或ひは右を見ても、左を見ても敵の死体の山だ。 女の死体、子供の死体、赤ン坊の死体、戦争なるが故の悲惨事は、可責かしゃくなく繰り広げられて行く。 精鋭無比、勇敢なる友軍の前には、其の数、幾倍にも当る敵も物の数ではない。 忽ち追ひまくられて、早くも城内には敵兵の影すらもない。 長追いをしては我れに不利となる。 四散する敵を見向きもせず、直ちに夫々の命令に従って与えられた任務を着々実行する。 発電所爆破、飛行場爆破と、次々と予定とおり終るや、各隊協同して城内の家に一軒残らず点火して、濠々もうもう大火災を起こして炎上する盧氏を後に、直ちに寸時の休む暇もなく、撤退を開始した。 此れ丈の大事を遂行するのに、昼迄の時間を要したのみであった、と謂ふ事は、如何に訓練された部隊とは云え「迅速果敢なる事電光石火の如し」と云っても過言ではあるまい。 我々は城内で徴発した蜂蜜を、夫々陶器の壺に入れて持ち、焼餅にこの蜜を付けては囓り乍ら行軍し、城内より四粁程来た地点にて、敵の弾薬庫に爆薬を仕掛け、再び行軍を続行する。 何しろぐずぐずして居ては、此処は西安が近いので危険である。 西安は重慶に次ぐ敵の軍事拠点である。 爆薬を仕掛けてから、ものの三十分も急行軍で進んだ頃、物凄い爆発音が次々と聞え始めた。 弾薬庫爆破成功だ。 此の弾薬庫にはドイツ製、アメリカ製、日本製などの、おびただしい弾薬がギッシリ貯蔵されて居たのである。 行軍する道路の両側には、敵が慌てて捨てたと思われる火薬や兵器類が延々幾十瓩にも続いて、車輛に積まれたまま置き去りにされて居る。 此れは我が戦車兵團にて、音に聞こえた虎兵團の威力の痕に他ならない。 此れ等兵器の中、火薬の分には「工兵当る可からず」の紙切れが、石に押えられて箱の上にのせられてある。 歩兵部隊の將校の仕業であろう。工兵は其んな事を通告されなく共、火薬類の取り扱ひについては、特に相当の教育を受けているので、其の点心配ご無用である。 盧氏挺身隊として出発して一カ月有余、其の戦功たるや、実に大なるものがあり、此の河南作戦を通じて第一番の功績であったと聞かされた。 日本内地では此の戦果は映画ニュースで発表され、我等も亦撤退行軍中、無電により、天皇陛下の上聞に達せられた事を知らされたが、此の挺身隊の中八十五パーセントは栄養不良に因る脚気に冒されて居た。 一ヶ月ぶりに本隊に追及した所は、前に一度戦闘し乍ら通った、臨汝郊外であった。 我等は此処で二日間の休養をした後、再び息継ぐ暇もなく、支那大陸を南え南えと昼も夜も休むことなく、行く先も知らされずに、あくなき行軍は続けられたのである。 此の頃既にアメリカは、蔣介石應援の飛行機を相当数支那大陸に送り込んで居たのである。 一方日本海軍も、アメリカの航空機と底知れぬ物量に負けて、山本元帥も既に戦死し「日本海軍今何処」と謂ふ聲も高く、制空、制海共に敵の圏内にあり、為めに大陸は間断なく敵の爆撃圏となり、我々の行軍も困難を極め、敵機の爆撃に因る人的損害や作戦上の障害は日に日に増して行くばかりであった。 私は此の南下作戦中、十日間程マラリヤが再発して野戦病院と行軍を共にしたが、牧常信戦友と共に病院を抜け出して本隊に追及した。 新郷ー鄭州ー開封、と、一度行軍作戦した所を、回顧し乍ら列車に乗って本隊を探す。 開封の兵帖へいたんに泊り、本隊の行き先の情報を探ぐる事にした。も早や当地は中支那だ。 眞昼の暑さは格別である。 幸ひ兵帖にプールがあったので、此処に居た二日間は、久しぶりに水泳を楽しむことが出来た。 然し、鹿児島県出身の牧常信氏と唯二人の旅だ。 四方八方よもやま尋ね廻った末の、二日目の夕方になって、本隊が漢口に居る事が判明して、喜び遺産で南京を後に客船に乗船して、揚子江を漢口に向け出発した。

     一九五一年 五月十日記


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