轉戦記 第4章 終戰編 復員①

プランチブリーで露営の一夜を送った翌朝、此の駅より一同は汽車に乗って、一路バンコックに向け列車は急ぐ。五月二十七日、バンコックの埠頭よりランチに乗り込み、沖に停泊して居る米軍輸送船、リバティV・O 六四号に乗船した。此の船は七千噸位いの船で、速力十五ノット。驚いた事には、此の船はリベットを使用してなく、総て熔接により建造されて居た。午前十一時愈々出発。長く、苦るしかった戦地とも、萬感の想いで別れを告げて、紺碧の海原を懐しの故国へ向けて船はすべる様に走る。舟は途中給油の為めサイゴン港に寄港して、再び此の港より出航した。南支那海は波一つない凪の中の航海であった。船倉は復員軍人を満載してスシ詰め状態だから、暑くてやり切れずに、大半は甲板に出て居る。航海中に一番困った事は、食事の量の少ない事である。何んでも内地は非常に食糧不足らしく、此の船の船員は日本人であったが、彼等は此の船の給料が目当てではなくて、復員軍人に割当てられた食糧を誤魔化して、これを内地で売り捌き、莫大な儲けをして居るとの事である。私達は船員の話しを貪る様に聞き、内地の事情を少しでも知ろうとし、亦、長い間戦地に居て、内地の知識に遅れたものを、少しでも彼等から学んで取り返えそうと、執拗に聞く。その話が忽ち船内の兵間に伝わる。

 入隊前十本入一箱十一銭だった煙草の「バット」が、今は「キンシ」と名が変り、三十五円するとか。我々には物価指数からして第一理解出来難く、船が内地に近づくに連れて、帰国後の生活等の事も考え併せ、段々と不安感が募るばかりであった。……

 台湾の南端寄りに、バシー海峡を航行したのは、丁度昼頃であった。波一つない静かな海上には、漁夫が小さな漁船に乗り、盛んに漁業に勤しんで居た。大きなふかの群が此の船を追って、船腹すれすれに近寄っては白い腹を返して、走る船と戯れるのも珍しい光景であった。私は軍隊入営以前に、南支那の海南島の事業所に赴任する際、此の海峡を航海したが、今日の様に長閑ではなかった。昭和十七年四月の戦争中の事とて、敵の潜水艦や飛行機を恐れてジグザグ航行の上、時化て風雨の強い荒波の中の航海で、生きた心地もしなかったが、今日は何等その様な心配はない。沖繩を過ぎ鹿児島の半島が見え始めると、誰一人として船倉に残る者はない。全員甲板上に出て来て、幾年ぶりかに見る故国の美しい景色を、恍惚として見て居た。

 外国から船で帰る時真っ先に感じる事は、日本の山の緑の美しさである。九州出身の軍人は、「鹿児島に上陸したらいいなあー」と、盛んに言って居る。九州を通過したのは夜に入ってからだった。此の夜になって始めて、上陸地点は関東の久里浜であると発表があった。

 私は此の船内で偶然にも、同郷の杉丸時生氏に逢った。彼も同じ三十七師団で、通信隊の曹長であった。私は代用食の乾パンを持参して、彼の船倉を尋ねて行ったら、彼も非常に喜んでくれた。六月八日待望の浦賀に入港した。直ぐにも上陸させるものと思ひ、一同下船の準備を早やばやと済ませて、一歩でも早く故国の土を踏みたいと待って居たが、一向に上陸させる気配がない。港内には他にも数隻の引揚船が碇泊して居た。我々は故国の土を目前僅かに百五十メートルにし乍ら、入港以来とうとう一週間、いらいらし乍ら船内で待ち通された。

 六月一五日午前六時三十分、上陸命令と共に飛び上る様にして、久里浜の埠頭に上陸した。上陸した埠頭広場には、米国軍による我々への検査準備が、整然と出来て居た。我々は此処で装具や所持品の一切を広げて、米国軍より被服や所持品の検査を受け、DDTで真っ白くなる迄消毒をされ、検疫も済ませて、久里浜収容所に入所した。此の収容所の周囲は、鉄条網を張り廻(めぐ)らせてあり、まるで捕虜収容所の様な感じである。入浴をしてさっぱりした気分になって夕食が出た。一人ずつ二合の酒迄振る舞ってくれた。幾年ぶりかで見る内地米は、丸くて、まるで餅米の様に光沢があり、その味は永い間外米に馴れた私の口には、甘みもあって、飯がこんなに美味しいものとは、思っても見た事がなかった程に、懐かしく味はって食べた。夕食が終ると、酒の加減も手伝ってか、軍隊時代の怨念確執に因るものか、リンチらしき事も行なはれて居た様子であった。此の収容所では、外出禁止を命ぜられて居たが、夜に入ると、収容所の柵外には、復員軍人目当てに闇商売達が、門前市をなして集って居た。皆んなは柵を超えて外出したが、煙草のキンシ十本三十五円也、巻ズシ一本十円也では、出征当時の物価とまるで異なる桁違いの金額に、只々驚くばかりで、欲しく共、手も出せなかった。私が此の収容所で、有難く頂戴した戦争中の報酬は、「ご苦労さん」の「さん」の意味を含んだものでもあるまいが、一金さん百円也であった。即ち巻ズシ三十本分である。……

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