轉戦記 第一章 北支編 一期の検閲前後②

此の詩は後に 佛領印度支那のプノンペンで、聯隊附将校の耳に入り 連隊長の知る処となり 連隊長より讃辞を受けた。 其の後 町田大尉が、ホワヒンの海辺の 佛人の家のピアノを借りて作曲し皆んなの歌として発表された。

 愈々(いよいよ)一期の検閲も目近かと云ふときに、我が中隊で小銃の盗難事件が発生した。「日本軍人は兵器を魂とする」との精神から、一九四三年七月十五日 真夏の太陽を全身に灼き付ける様に浴び乍ら、木蔭一つとてない中条山脈を越えて 僅か一ヶ中隊で、黄河の沿線である陌南鎭附近に、初めての討伐に行った。足中豆だらけになって行軍し、連日彼我の夜襲戦えお続け、敵の小銃六丁を、土穴から掘出して 意気揚々と聯隊に帰ったのが、八日後の七月二十三日であった。 僅か九日間ではあったが 初めての、激しく そして苦るしい作戦であった。 水一滴ない中条越は、兵全員が雲の蔭を追ふ、枯渇の苦るしさだった。 然し、私はこの一戦により 戦闘なるものに強い関心を抱いて来た様であった。

一期の検閲近くになって、初年兵全部の学科試験が二回行はれた。 教官は、私の成績が九十八点で最優秀であったから、私の故郷の実家に、その旨通知したと伝えてくれた。 検閲は厳しく 辛いものだった。 特に土工の検閲では、二メートル平方の、深さ二メートルの竪穴を、剣尖スコップと鶴嘴だけで堀り上げるのである。 粘土質とは云え、やや硬質の粘盤岩も出て来るので、泣き出す者も出てくる仕末であった。 然し、錬えに錬え抜かれた我等初年兵の検閲も、永野師團長検閲の下に、無事終了した。 検閲が終って、初年兵は同時に、一等兵に昇進した。 此の時には、既に二百名も居た同年兵は、僅かに七十名余りに減って居た。他の同年兵は、ビルマ方面に転進したり、東北部隊に転入されたのである。 此の頃から、九州や東北人を混合して、部隊の長短を補足強化する様 軍は計画して居たものらしい。 私は同年兵を引卒して、代表して昇進の申告をした。 検閲が終ると、外出も単独外出で楽しい。 私は早速、卒業記念に、門司の兄から貰って、七年間も所持して居た時計を五十円也で賣払って、運城に唯一軒の兵隊の食堂、「つわもの会館」に行き、酒に化かしてしまった。 お守り袋の中にかくしておいた二十円也の内地紙幣も、日本商人はら軍票に換えて貰って、酒にしてしまった。 大抵の初年兵は糖分が欠乏して居るので、饅頭喰ひに行って居た。 軍隊用語で「ピー屋」と云ふ軍専用の慰安所にも皆んな押しかけた。 然し、間もなく既教育兵と共に作戦作業に行く様になってから、運城の外出も出来なくなってしまった。

一九四三年八月二十二日、作戦命令に依り、我々は喉馬鎭よりトラックで、山西省を新郷附近から黄河の支流となって北に上って居る、沁水河の支流に架橋作業に行った。 此の山奥は第一線でもあり、トラックを飛ばして居る道路の附近には、土匪がウヨウヨして居て時々襲撃して来た。実に物騒な所で、途中山道に、「小松部隊全滅の跡」と記した標柱を見て、胸を締め付けられる思いであった。 此の沁水河は大陸特有の河で、一寸雨が降ると「アッ」と云ふ間に河水は氾濫して、危険な河である。 或日など、架橋作業中に突然増水して、対岸から帰れなくなったが、夕刻になれば敵から襲撃されるので、止むなく夕靄(もや)の立ち込める河を渡ったが、氾濫する河底には大きな岩石がゴロゴロと音を立てて転げており、命がけの渡河で、護衛の歩兵は転げる岩石に足をとられ、水に呑まれて死んだ者もあった。 此処の作業は、長さ八十メートル程の木橋架橋だったが、作業が終わると直ちに喉馬鎭に引返して、其の日の中に、渡河器材の舟等を列車に積込んで出発した。 太原の北の代州附近の名もない様な駅に着くと、聯隊主力は此処で下車して、雨の中を徒歩で、有名な五台山に向った。此の時は、とめどもなく山中の坂道を行軍したが、飯を炊くのに、水がなく困って居たところ、折からの雨で道路上を流れる、黄色のドロドロの水で飯を炊いたが、泥臭いやら何やらで、飯は喉を通らなかった。道路の両側には棗(なつめ)がまだ青いが、大きな実になって、至る所に稔って居た。 其の日は五台山に宿営することになった。 私達は幸ひ通信分隊として、初年兵だけ七名で別に宿舎を見つけたので、古年兵に心配もなく、支那酒を大いに飲み、束縛のない、自由な一夜を伸び伸びと過した。 次の日は、トラックで目的地の河に行き、此処で一週間程かかって、大小四ヶ所に各中隊競争で、架橋した。 聯隊長が関東軍出身と云ふだけに、軍律に厳しく、作業は常に競争制だった。此の時、江島准尉が、渡河用にケーブルを懸けたが、とんだハプニングを起こしてしまった。 此の日、聯隊長が、此のケーブルに乗って渡河して居たら、河の中程の所で、ケーブル諸共、河の中に落ちてしまった。 お蔭で、作業期間中、聯隊長の御機嫌は麗しくなかった様であった。 此の作業が終わると、私達は1ヶ中隊で更に奥地の北嵩岡江(きたこうこうこう)と云ふ所に行き、排日教育の教科書が山積みして居る学校を占領して宿営した。 此処で、多方面の作戦に参加して居た堂山軍曹が、地雷で壮烈な戦死をし、爆死の為め戦闘帽の僅かな一片のみが残り、遺体は影おも止めなかったと聞いた。 立派な方であっただけに、戦友一同涙して哀悼合拿した。 此の学校に五日間程待機したが、一部を残して、中隊主力は喉馬鎭に向って反転した。 此の作戦は、八月二十二日から十月二十三日迄かかった。 夏とは云え、高地の五台山の夜は「おんどる」を炊かねば寒むくて休めなかった。 十月二十三日、喉馬鎭に到着して見たら、残務部隊が、直ぐ近くの汾水河の架橋作業をして居るので直ちに應援に行き、休む間もなく其の日から作業した。此の河は泥で埋まった河で、橋脚の柱を、いくら打込んでもきかづに、複列柱にして架橋して居た。 此処では珍らしくも、在留胞人の婦人会が湯茶の接待に来て居て、大変懐しく心温まる思ひであった。 私は、此の町での、外出を楽しみにして居たら、此の夜作戦命令で、オルドスに近い綏遠省包頭の東方、流安方面の渡河作戦に行く事になった。 中隊から三十三名を選出し一ヶ小隊を編成したもので、私も其の一員に選ばれたものであった。

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