轉戦記 第一章 北支編 入営まで

一九四一年 一二月八日 私は宮崎県延岡市の路上の掲示板で、米英に対する宣戦布告を知った。此の日私は、日本窒素肥料株式会社南方部東京本社を入社試験に、熊本の学校から、赴むいていたのである。 此の掲示を読んだ瞬間の感想は、 「日支事変でさえも 六年かかってどうにもならぬのに、到底勝つ事は出来まい、悪い戦争を始めたものだ」と思った。

 私は徴兵検査を、南支那の廣東で受けた。 結果は、第一種乙種合格であったので、若しかしたら現役には行かずにすむと、密かに喜んでゐた。私は軍隊が嫌ひだったのである。

別に これ、と云った理由はないが、重い背嚢を(はいのう)を背にして行軍する事が、私には到底耐え切れぬ事だと、思い込んで居たのが、主要な原因だったらしい。 肉体労働をした事がなく 身体が余り強い方ではなかったからである。 然し、一九四二年の十月の終り頃 最も恐れていた現役入営通知を、南支部海南島の日窒の会社で受け取った。 私は、希望も、夢も。一度に覆えされてしまった。総てを諦めて「戦場で死ぬんだ」と思った。多感な青年時代故に、死と云ふ事に一層深刻だった。

 十一月三日の明治節に、会社の行事で催された大運動会に出場して、終了後盛大な送別会を受け、少年ブラスバンドの演奏と、多数の社員に見送られて、トラックで砂丘地帯を突っ走り、椰子林と海の綺麗な輸林に廻り、この港から石原産業の七千屯余りの鉱石船に乗り、内地に帰った。内地はもうすっかり冬だった。九州の八幡港に上陸して、神戸に所用の為め直行して、それから故郷に帰って見たら、父は病床に在り。 私の出発後、福岡の九大病病院で食道癌の手術をするが、余命幾何(いくばく)もないとの事だった。 病床の父を残し再び故郷に帰ることもあるまいと思い乍らも、海南島を出発して、入営迄あまりにも短い日数で心の整理もつかぬ、遽(あわただ)しさに追われ通しの身には感傷的になる余悠もなかったのか、案外未練もなく、隣りにでも行く様に軍隊に入営した。

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