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ゼロ次元「加藤好弘」に関するメモ その1 夢解読以前

【プロフィール概略】
加藤好弘は、1936年(昭和11年)名古屋に生まれ、多摩美術大学油絵学科を卒業後、名古屋の公立中学校で美術教員を務めながら、生涯の盟友となる岩田信市と前衛芸術集団ゼロ次元を起ち上げ、路上パフォーマンス等で活動していった。


60年代はじめ結婚を機に、上京し、霜取りヒーター類の販売や配電盤の設計製作を扱う明星電機株式会社を経営しつつ、ゼロ次元としては、全裸身体を都会に露出し、意識を飛ばしながら、その空間を異化するいわゆるゼロ次元儀式を行い、やがて、万博破壊共闘派を主宰し、転機を迎えた。


70年代はじめに、激しい意識変容を体験し、その体験に基づく表現行為の再構築を目指し、ゼロ次元活動を封印した。70年代半ばに、自身の夢から、自身の意識改革と表現行為をつなぐ媒体として「夢」を見出し、80年には、その理論的な枠組みとして、「タントラ」に出会った。81年に、夢とタントラをつなげた本を出版し、夢タントラ学派を称し、日仏会館で記念パフォーマンスを行った。


80年代末に、明星電機の経営から退き、離婚し、家族とも別離し、愛人のひとりと再婚(その後離婚)し、米国に渡った。


90年代後半に帰国すると、伝説と化していた自身を演じるかのようにゼロ次元の名称を自身に復活させ、生来のアジテータとしての能力を発揮し、ゼロ次元夢タントラ学派として、封印していた今までの思いを振り切り、前衛芸術家としての活動を続けた。一方で、70年代より続けてきた、新しい人間観を提案する内的な芸術活動、加藤本人がいうところの「郵便配達夫シュヴァルの理想宮の夢版」の一面もある夢解読を独自に深化させていった。夢解読をさらに深化させてゆくには、世俗的な前衛芸術家という一般社会への窓口が必要なことを加藤本人は自覚し、実行していた。


2018年(平成30年)2月9日に、膀胱がんによる多臓器不全で死去。


3月15日の朝日新聞に訃報記事が掲載された。行われていない近親者による葬儀、居もしない妻の記載がある不思議な記事だった。訃報を1ヶ月伏せることが本人の意志として発表されているが、もし、これが本当ならば、自身の死の前後に前衛芸術家加藤好弘を慕う者たちが訪れ、死を看取った愛人が対応しきれずに混乱することを避けた加藤らしい優しさであったろう。

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◎ゼロ次元「加藤好弘」に関するメモ その1 夢解読以前

【その1 (「夢」に出会うまで) 70年代の加藤好弘】

1970年(昭和45年)2月4日の日本経済新聞は、紙面を大きくとり、「恐怖の幻覚剤 LSDやはり日本に」というタイトルで、「警視庁、鑑定を急ぐ」「会員組織で密飲か」「麻薬よりも危険 心臓マヒや精神分裂病に」という記事を掲載し、最後に「LSDを麻薬に指定 厚生省 取締りへ政令改正」とした。


加藤好弘が同記事を読んだのは、それまでのゼロ次元儀式に対する認識行動に大きな影響を及ぼすこととなったLSD体験の洗礼を浴びて、しばらくしてからだった。


加藤のもとにLSDを持ち込んできたのは、ティモシー・リアリーが主催する米国のサイケデリックエクスペアリメント運動の渦中から帰国したばかりの映像作家まさのりおおえだった。

その頃、おおえは、加藤の自宅兼事務所の1室に居候していた。


LSD体験は、強烈な刺激を加藤に与え、今まで行ってきたそれまでのゼロ次元儀式の見直しを迫られるだけでなく、もっと根本的な生のあり方までも問われることとなり、以後、亡くなるまでつづいたであろう独特の内省的な思索が始まるきっかけともなった。


LSDを体験するに先駆け、先導者となったおおえの話を聞いた加藤は、体験場所を、246沿いのマンションの2室をつなげて確保していた自宅兼事務所とした。安心してLSD体験に集中できることを念頭においていたためである。


加藤はおおえの話を聞き、想像をめぐらし、LSD幻覚初体験のための準備にかかった。昼間は、明星電機株式会社の事務所、夜はゼロ次元ホールとして活動の拠点にしていた25坪ほどの空間の中に、海やジャングルなどをイメージしたコーナーをいくつか作り、さながらテーマパークのように設えていった。ジャングルのコーナーには、屋内樹木が置かれ、天井から緑色のテープが数多く吊るされ、海のイメージのコーナーには、ブルーのテープが天井から床までかき分けなければ進めないぐらいに吊るされていた。(「いなばの白うさぎ」のなかに、天井から吊るされたおびただしい数のテープをかき分けてゆくシーンがある。)


何事にも慎重な加藤は、スタッフを動員して1週間以上を準備にかけた。


ところが、思わぬ珍事が起きた。


加藤が薬箱に隠していたLSDを妻の律子が間違えて飲んでしまったのである。

夕方に帰宅し、妻のハイテンションにより誤飲に気が付いた加藤は、おおえとともに妻のサポート役を行うこととなった。


研究熱心な加藤は、妻のLSD体験(トリップ)を邪魔しないようにしながら、自分の体験に備えて、質問をしていった。質問をしても、何が可笑しいのか陽気に笑われてしまうことが多く、中でも一生懸命に考え仲間を動員して作ったテーマパークについては、そこでイメージの遊びをするどころか腹を抱えて笑われてしまった。質問の内容よりも質問すること自体について、律子は可笑しくて仕方がないようだったが、加藤にとっては、理解が及ばず、その理解を自分の体験まで待つこととした。


翌日、加藤は仲間たちとLSDを飲み、効きはじめたときに、満を持して、テーマパークの真ん中に移動した。そして、LSD体験のなかに入っていったときに、一瞬にして、LSDがもたらす知覚認識の変容、意識の内部への流動化などにとって、このテーマパークはまったく関係なかったことを悟った。


そして、なぜ、このような大げさなテーマパークが自分にとって必要だったかという問いがどことも知れず、加藤の中に湧き上がり、膨らんでいった。


同じような問いは、上京以来行ってきたハプニング儀式、東京オリンピック聖火強奪作戦、末広亭の狂気見本市、浅草のキャバレー花電車にも及び、名古屋時代の表現活動についても向けられていった。


どのような意識の変容があり、思索の流れがあったかを追うことはできないが、例えば、表現行為についての思考では、こういうことが起こっていたと加藤自身が語ったことがあった。


まだ、あけていない缶詰があり、その中に豆が一粒だけ入っている。これを振ると中の豆が缶にあたり、カタカタという音が出る。同じ缶詰、同じ豆であったとしても、振る人間によって振り方が違うので、カタカタだったり、カンカンカンカンだったりとそれぞれ個性的な音を奏でる。

このカンカンという音を今まで行ってきた表現行為の一つの隠喩とするならば、LSD体験の中では、缶詰の上部と下部のフタがなくなってしまっていて、缶を振ってみても、豆が缶にあたる前に空中にすっぽ抜けて浮かんでしまっていて音が出ない。そして、豆だけが宙に浮いている。


いささか陳腐なメタファではあるが、缶詰が社会的な枠組み・器で、豆がその中での個人ということになるかもしれない。


LSD体験は、表現行為を支えてきた加藤の既成概念を根底的に揺るがすこととなった。芸術と言われてきた表現行為とは、人間社会のなかのどんな仕組みで、どのように成立していったのか、人間社会の仕組みが変わってゆくときに表現行為のあり方も変わるし、個人の表現行為から社会といわれる構成システム自体を変えることも可能ではないだろうか、しかし、はたして人間にとって表現行為自体は必要なのか、といった問いが加藤のなかを超高速で駆け巡った。


既成概念を素材につくられてきたエゴを主体性ということばで置き換えるにしても、そのようなものからつくられてきた、空き缶に閉じ込められた豆粒が叫び声をあげるような表現活動を行ってしまっていたのではないだろうか。


加藤は、缶詰の上下のフタを開けられてしまった新しい自分も持つこととなった。


そして、加藤の関心は、缶詰のフタを開けられ、宙に浮かばざるを得なかった自分からの可能性に向けられ、ハンパクを一つの機会として、表現活動を休止することとなった。


21世紀になり、米国から帰国した加藤は、インタビューの中で、70年代は世界中を旅していたとよく語っていたが、これは、いろいろな世界にトリップしていたことをオブラートとした表現で、実際の加藤は自らが企画し家族で行った3回のインド旅行団と1回のヨーロッパ旅行(パリの桜井孝身、ロンドンのちだういを訪ねた)したぐらいでいわゆる現実の世界旅行はしていない。


万博も終わり、71年の夏から秋にかけては、加藤率いる東京ゼロ次元は、学生運動も下火なりつつあり、次の時代を模索していた大学の学園祭を回っていた。ちょうどそのころに、東京での布教活動をひとりで始めていたハレクリシュナ意識協会日本代表のスダマ氏が加藤宅に居候しており、クリシュナのチャンティング+ゼロ次元儀式を都内のおもな大学、法政大学、明治大学、関東学院大学、慶応大学で繰り広げていた。


どこの大学でも一波乱も二波乱もあり、なかでも法政大学では、ヘルメットとゲバ棒で武装した数千人の学生に対し、いなばの白うさぎ全裸儀式を、正門正面の校舎前に据えられたステージで行い、そこに興奮した学生がステージに押し寄せ上ってくる始末で、さらに、3階4階からは身を乗り出していた学生たちがステージの儀式上に落ちてくるという狂騒だった。ヘルメットやゲバ棒で武装した数千人の学生が波のようにうねっているなか、ゼロ次元全裸儀式集団に向けて観客が空から降ってくる光景はとてもこの世のものとも思えないようなすさまじさだった。


このような儀式も73年ごろからは休止となり、加藤自身は内省的な哲学トリップを深めてゆくことに専心していき、それに適った新しいスタッフが徐々に集まりだしていた。


内省的な思索である内的な世界観が、自分でもともとおこなってきた他者に対する表現活動に結び付くのかが加藤の課題となっていたので、研究熱心な加藤は、週に1回、近辺にいた学生たちを集めて、明星電機ホール(当時は、ゼロ次元ホールという名前をだすことを避けていた。これは、公安との関係もあったため)で勉強会を始めていた。構造主義、ラカン派心理学、レヴィストロース、さまざま分野の思想について学生たちが語り、加藤が質問評釈する形式が長く続いた。


そして、70年代半ばになり、加藤は、自分の内省的な思索が表現活動に結び付く媒体を発見していった。

それが、「夢」である。


個人的な世界観の一つの表現である夢自体は、個人に閉じられているが、これを解読することにより、個人から他者へ開かれた共通言語ともなる。また、翻れば、個人的である夢それ自身も、夢を見た当人取っては、他者でもある。


といったところから始まる加藤好弘の夢理論についてのメモは、次稿に譲ることとする。



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