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偶成1

「内的な出来事にくらべると、旅や人々や私の周囲についてのあらゆる記憶は色あせてしまった。…私は内的な出来事にてらしてる場合にだけ自身を理解することができる。」とはユングの自伝のプロローグにあることばで、若いときに初めてこのことばに接したときには、人の生における崇高な真理を垣間見る思いがしたものだが、加齢を重ねるに至り、次第に老人がたどり着くひとつの真理であり、しかも何かの拍子に愚痴めいた感触すら覚えるようになった。

と言っても、ユングの言っている「内的な出来事」とは、「不滅の世界がこのつかのまの世界へ侵入したこと」であり、「『他』の現実との出会い」という凄まじいできごとなのだから、ある特殊な体験を韜晦しつくした疲労感がただよっているようにも思える。

ユングに対して、老人だの愚痴だの疲労感などと失礼なことを書いているが、儚いことを繰り返し体験している諸行無常の世界にどっぷりと浸っている身としては、ユングが自分の直接体験である「不滅の世界である『他』の現実との出会い」を積極的に捉え、内省を重ね発表してきた姿勢には、ひとつの未知の可能性を突きつけられているようで、尊敬の念を抱いている。

そもそも、ユングが自分の生を率直に語っている『自伝』のなかの文章を思い出したのは、カトリーヌ・マラブーの『偶然時の存在論』を読み始めたのがきっかけだった。

「私たちの誰もが、ある日別人に、まったくの別人に、それまでとの自分とは決して折り合いをつけることができないような…時間の外へと突き落とされたかのような何者かになりうるということである。」という、カトリーヌ・マラブーの文章は、『偶然時の存在論』の一節にあり、この『偶然時の存在論』をこのところ日に一回はそれこそ般若心経を毎日唱読する隠棲者のようになって、ぱらぱらと散見し、そのたびに、共鳴か共振かは定かではないが、激しく揺り動かされている。

その揺れのなかで、「『他』の現実との出会い」がありながらもマラブーが書いているような「時間の外へと突き落とされ」なかったであろうユング、現実の世界観とは全く異なる世界に侵入され包まれても、自己の中で意識を継続し歴史化できたらしいユングの自伝を思い出したのだろう。

マラブーが自分の敬愛する叔母が認知症にかかり、別の人格になったとしか思えないような体験を元にして書かれた『新たなる傷つきし者』を読んで衝撃を受けたなかに、「破壊的可塑性」という概念があった。

『偶然時の存在論』では、ヨーロッパに伝わる変身物語からカフカの『変身』に至るまでの変身概念の共通性、スピノザのコナトゥスにある現代の脳神経学へつながる概念、フロイトの否認概念の比較検討、マルグリット・デュラスを題材にした斬新的と急激な二種類の老いの確認、と各分野を渉猟し、その「破壊的可塑性」をあらわにしてゆく。

高度に思索的で深い内容を含み持つ本が多くの場合に、詩的な仕上がりになっているように、この『偶然時の存在論』も詩的なたたずまいがあり、気ままにページを括り、再読するたびに新しい発見と気づきがある。

生への一貫した意識の継続は、アイデンティティとも呼ばれていたものを形成し、破壊しようともする。

フーコーの伝記の作者でもあるD・エリボンの自伝小説では、自身がゲイであるという性的マイノリティの苦しみと下層である出自階級の離脱を目指さなければならなかったという環境の中で作り上げたアイデンティティへの贖罪が老境の意識で恥ずかしいほどに吐露され、その痛みに触れると、見えないが慄然として存在している階級社会が日本にもあることを思い出させてくれるのだった。

自分の帰る場所というイメージの懐かしさと切実さがあり、さらにはそれがそもそも陽炎であった由縁みたいなことをフーコーは幾重にも語っていた…。

日本的階級社会に対して、よそ見しながらやり過ごした作家のひとりに澁澤龍彦がいたことをふと思い出し、かれの立ち位置のフラジャイルさがとても愛おしく思えてくる。

浅田彰が島田雅彦との対談集『天使が通る』1988のなかで辛辣に語った「澁澤龍彦も<異端>を気取るのをやめ、反世界の<美>が砕け散ったあとの<綺>の世界を素直にものがたるようになった。その<綺譚>は、かつてのような力みがなく、読んで恥ずかしいということはなくなったが、これはつまり毒にも薬にもならないということに他ならない。」という指摘は余りにも厳しく澁澤の老境を射ており、息が止まるような思いがしたものだが、その浅田批評後の「澁澤龍彦」は、実は、世間の中で居心地の良い場所を見つけたようでもあったのではないだろうかともおもったりするのだった。


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