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#20 今日も明日も嬉しかったことだけを重ねる、それだけ。

少しだけ、私の交友関係歴を。

有難いことに私にはこれまでずっと周りに仲良くしてくれる友達がいて、いつだって小学校の通知表には「Emmaさんはムードメーカーで誰とでも仲良く出来ます、いつだって話の中心にいるし、ひとりぼっちのお友達がいれば声をかけて一緒に過ごします。」と書かれていた。みんなと楽しく過ごす私の交友関係を先生も両親も誰も心配しなかった。

でも実際、クラスの中のどの友達グループにも属してなかったし遠足バスで隣の席に座る2人組を作ってくださいの時間は人生で1番しんどい瞬間だった。

みんなと仲良くしているようで、実は誰とも密接的な関係ではないし、みんなと仲良いようで実は孤独だった。「イツメンがほしい」は学生時代の夢だった。

今思えばあの頃の自分(特に小〜中学)は都合よく生きてたんだろうなと思う。その時その時で目の前の友達に都合のいい自分をしていたんだと思う。自分の考え方や行動が人と少し違うことを分かっていたし、小1の時、6年生の子に定期的に容姿をバカにされたいじめの経験から、「本当の自分を出して嫌われたらどうしよう」という嫌われたくないという気持ちがずっとずっと心の中にあった。

そんな私が心の底から、これが「友達」と感じる事が出来たのは高校に入ってからの出会いだった。いい意味でも悪い意味でも私より「個」を持つ彼らは刺激で、そんな彼らには本当の私が出せたし、本当の私になれた。夜の田舎を歩いて朝日を見に行った、ファミレスでずっと話した、全部青春の1ページだ。

そんな彼らとは疎遠になりつつも社会人になると全員東京にいた。止まってたLINEグループは動き出して、よく夜にグループ通話をして数ヶ月に1度会って遊んだ。彼らとだったら飲みじゃない遊びができた。同郷ということもあり上京した私にとっては再び心の拠りどころとなった。

そしてある日彼らはグループを急に退会して関係は突然切れた。

それに気がついたのは彼らがいなくなった少しあとの火曜日の朝だった。心当たりがない訳では無かったけど自分としては真摯に向き合った結果だった。

悲しかった、気づいたら泣いていた。
彼らは私にとってただの「友達」じゃなかった。

「自分が間違ってた、あの時自分はこうしておけば良かったんじゃないか」と思った。けどそれは彼らにとって都合のいい自分だった、だからそれは違うと思えた。

学生時代の自分とはもう違った。
いつか聞いたある逸話がふと浮かぶ。

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ネコがタネを飲んでしまって獣医さんに診せたら「反省してもうタネには近づきません」ではなく、『タネで遊んで楽しかったコトしか覚えていないので、また同じことをしますよ』と言われた。

ネコは嬉しかったことだけを重ねて、生きていく。

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大人になって、価値観の違いが顕になったのかもしれない。私は受け入れられたけど向こうは受け入れられなかったのかもしれない。真相は分からない。そんななかなか立ち直れない中で、彼らと過ごして嬉しかったこと楽しかったことに目を向けた。

彼らと10代を、社会人1年目を過ごして自分の好きな自分に出逢えたことを沢山思い出した。そしてイマを受け入れた。

へこんだ時はネコになること、今日も明日も嬉しかったことだけを重ねて生きていく。
それは悲しいことからの逃避じゃない。
過去もまるっと抱きしめて前を向く、今日を生きるライフハックなのだ。

人生悲しい時間はできるだけ短くありたい。

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