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お人好しが頼りない

『稿本天理教教祖伝逸話篇』に「一二五 先が見えんのや」というお話が収められている。短いので全て引用したい。

中山コヨシが、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなった。
それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、
「コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ。」
と、お言葉を下された。
これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、目が、又元通りハッキリ見えるようになった。

そして文末の註には「中山コヨシは、明治十六年八月二十七日結婚。これは、その後、間もなくの事と言われている。」と記されている。

結婚して間もなく、早くも生家へ帰る決心をしたコヨシ先生。その理由は、重吉先生のお人好しを頼りなく思ったからだという。

コヨシ先生は教祖のお言葉をどう悟ったのだろう。何を申し訳なく思い「泣けるだけ泣いてお詫びした」というのか。

中山伊千代「中山こよし」(『みちのだい叢書 第二集』所収)を読んでみよう。生家へ帰る決意に至ったとある事件、そして教祖のお言葉を取り次がれたコヨシ先生の内面が比較的詳しく記されている。

警察の干渉が厳しく、頼りにする重吉祖父はあまりにお人好しで頼りなく、家計もあまり楽でなし、常に喜べなかつたところへ、ある日他家からお赤飯を頂戴いたしましたが、恰度、重吉祖父が田圃からかえられ、大好物の赤飯に相好をくづして喜ばれました。体格はよいし、その上田圃がえり、大好物と三拍子そろつているからたまりません。遂に一升入りのお重箱を全部平げてしまいました。普通なら笑つてすませる様なものでありますが、常々喜べなかつた上に、一升めしを平げる夫に、今こそ愛想もつき果てて、もうかえらしてもらおうと決心し、然し、しかけた張物をすませてからと、せつせと張物をしておりますと俄かに眼先がくらくなりました。おかしな事やといくら眼をこすつてみても、依然としてうす暗く物の象もさだかに見えません。そうこうしている中に門でこえがして御本席様夫人おさとさんが入つて来られたので、祖母様は
『あゝおさとさん、お日さんかくれはつたのかいな』
とたづねてごらんになりますと、そんな事はないとの返事
『あゝこよしさん、えらいこつちや、あんたの眼玉眞白やがな』
といいざまおさとさんは教祖様のところへ走つてゆかれ事の次第をはなされますと、教祖様は
「なあ、こよしは先がみえんのやで、そこをよう思案してさとしてやっておくれ」
と仰言つたので、いそいでひきかえし教祖様のお言葉を取つがれますと、祖母は
『あゝ申訳ない、こゝへ嫁入りした日から今日まで一日として喜べなかつた。然し今日は遂々さとへかえる決心までした、あゝ申訳ない。神様は私の如き者をこゝまで可愛がつておつれとほり下さる。あゝ申訳なかつた』
と心の底からおわびをされますと、なんとあらたかなお手入れでしよう。また少しづゝ見えかけて、ぢきにもと通りの健康な眼になられたそうでございます。

お人好しである夫が頼りなく、日頃からストレスを感じていた中にも、不満を爆発させた引き金は重吉先生が他家からいただいた赤飯を一人で平らげてしまったことにあったという。「先が見えんのや」とのお言葉を聞き、嫁入りしてから一日も喜べなかったこと、それでもそんな自分を可愛がってくださる親神様の親心に、「申し訳なかった」とお詫びされたのである。

重吉先生夫妻がお互いに性格のずれを気にしだすようになるのは結婚してからということになるだろう。そこで気になるのは、この二人がどういった経緯で出逢い、どのように縁を結ぶことになったのかという点である。

『天理時報』昭和五十三年五月二十八日号に、孫にあたる中山慶一先生が「祖父母の結婚話」を記しておられる。以下、またもや長めの引用を許されたい。

じいさんは今風の言葉でいえば徹底した「百姓志向」のお人好しであったわけです。
ところがこのじいさんの配偶(つれあい)である祖母のこよしは、およそじいさんとは異なる性格の人だったんです。八方破れというか、素朴この上ないじいさんの人柄に対して、ばあさんはしっかり者でした。お道の上でも積極的で、精いっぱいに努力をした人です。じいさんとは反対に世間的な常識をそなえ、きちんと折り目正しい人でもありました。それだけにじいさんに対しては、とかく批判的になりがちだったようです。
じいさんが例えば下手な百姓仕事に打ち込み、作物を近所へ配って楽しんだりしていることにも、「そんなくずいもあげたかて、誰が喜びますか。おかしなことやめなされ」と、にべもないいい方をしていたものです。
(中略)ともあれここでは、二人のこの奇妙ともいえる結びつきのいわれに、少し触れてみたいと思います。
祖母のこよしは、現在の天理市杣之内、当時杣之内村大字山口といったところの出身です。家は吉田という姓の農家で、彼女の姉が福井鶴太郎の嫁でしたから、その妹のこよしが、重吉自身かまたは鶴太郎の母であるおまささんの眼にとまったものと推測されます。
いずれにしてもおまささんは、二人の結婚について教祖の思召を伺って決めようと考えたのです。二人の性格のちがいを気にしていたためかもしれません。
おまささんはある日、二人を連れてお屋敷を訪れました
『よう来たなあ』
教祖は若い二人を、いつものお言葉でお迎えになりました。深い、静かな響き、それでいてほかほかと温みの伝わるお声です。そのあとの展開が、しかし面白いことになりました。多分、おまささんが二人の結婚話について何か申し上げてからでしょうか。教祖は重吉に向かい、
『お前、盆の音頭をとりなされ』
とおっしゃり、こよしに対しては、
『こよし、お前は盆の踊りをするのや』
といわれたのです。
(中略)
こうしてお居間はたちまち盆踊りのはなやいだ空気に包まれました。重吉の評判ののどが、快い律動感を奏でます。軽やかな、こよしの手足の動き、身のこなし、それらが宙に立体的な絵を描きます。呼吸はぴったり。
重吉は天性、声がよく、節回しがうまかったそうです。盆踊りの時節が来ると、三島村の若い者が集って、「重吉さん、音頭たのみます」ということになるのでした。お人よしで、頼み易かったのと、また断れない性質(たち)であったためか、いつもじいさんがやらされた、と母がよく話したものです。
こよしはこよしで、踊りが好きでした。自分の村の盆踊りには欠かさず出て踊っていたのです。教祖はその辺をよくお見通しでいられたのでしょう。
重吉とこよしとは、こうして教祖に仲を結んでいただくことになりました。のちに二人が述懐したと伝えられている話では、盆踊りのあとで二人は「十年もの長い間つき合ったような親しさを感じた」ということで、二人とも喜んで結婚することにしたのです。

教祖の命により、声が良かった重吉先生が盆の音頭をとり、その調子に合わせて踊りが好きなコヨシ先生が踊った。性格のずれを気にさせない呼吸ピッタリの相性に、「十年もの長い間付き合ったような親しさを感じ」結婚に至ったというのである。

考えてみれば、当時は男女が隔てなく交際できるような時代でもない。もし知り合いだったとしても、顔見知り程度で終わっていたかもしれない二人が、教祖の計らいで互いの気持ちがほどけて、すっかり意気投合したと思われる。

「教祖が結んでくれた縁」ということに深く感じ入るからこそ、「あゝ申訳ない、こゝへ嫁入りした日から今日まで一日として喜べなかつた。然し今日は遂々さとへかえる決心までした、あゝ申訳ない。神様は私の如き者をこゝまで可愛がつておつれとほり下さる。あゝ申訳なかつた」と泣けるだけ泣いてお詫びされたのだろう。

そして、その神意に気がついたコヨシ先生の眼はまたハッキリ見えるようになったのだ。深いさんげを経て、これ以来コヨシ先生と重吉先生は夫婦仲睦まじく暮らした、と捉えてもまんざら僕の希望的観測ではないはずだ。

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