「よふぼく」はいつから?
おさづけの理を拝戴した人のことを「ようぼく」と呼びます。
天理教の人なら、もちろん知っていますよね。
ずっとそう聞かされてきましたから。
ところで、おさづけの理を拝戴した人のことを「ようぼく」と呼ぶようになったのは、いつからでしょうか?
教祖が初めて赤衣を召された明治7年?
教祖が身を隠された翌年の明治21年?
一派独立をはたした翌年の明治41年?
復元が提唱された翌年の昭和21年?
ごめんなさい。全部違います。
正解は
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「昭和34年」です。
天理教の歴史の中では意外と新しい出来事なんです。
それでは、順を追って説明していきましょう。
まず「おさづけ」について
教祖ご在世中には、複数のさづけがありました。
教祖伝や逸話篇で見かける「さづけ」もありますね。
この中にある「あしきはらいのさづけ」が現在の「おさづけ」です。
「あしきはらいのさづけ」を最初に授けられたのは、明治7年、辻忠作先生です。
なお、さづけ自体は明治7年から遡ること10年前、元治元年からいくつか授けられているようです。
つぎに「よふぼく」について
おふでさきでは「よふぼく」「よふぎ」と表記されています。
初めて出てくるのは、明治7年に書かれた「おふでさき第三号」です。
現在の「おさづけ」が初めて授けられた年も、おふでさきに「よふぼく」という言葉が初めて出てくる年も、どちらも明治7年です。
なかなか、興味深いところです。
さらに「教規と規定」について
○ 明治21年
明治21年は、教祖が身を隠された翌年です。
「神道直轄天理教会」を設置するにあたり「神道天理教規約」が制定されます。
○ 明治41年
「神道天理教規約」はその後、何度か変更が加えられ、明治41年に一派独立のタイミングで、10章50条からなる教規と12種の規定に定められました。
その時の教規に、下記のような表現があります。
「授訓」とはおさづけの理を拝戴することです。
つまり、おさづけの理を拝戴した人を「教徒」と呼ぶとしたわけです。
ちなみに「授訓」という言葉、最近は使われなくなりましたが、牛込詰所の事務所では普通に書いてあります。
また「教徒」の表現ですが、同じ発音で現在「教人」という言葉がありますが、もちろんこの2つは違うものです。
ちょっと余談でした。
○ 昭和21年
さて、明治41年の一派独立から時が進み、昭和21年。
戦争が終わり、復元が提唱された翌年です。
この年の教規改定で、先の部分が次のように変更されます。
授訓という表現が、おさづけの理に変わっています。
○ 昭和34年
そして昭和34年の教規改定で、ついにこの表現になります。
このように変遷して、おさづけの理を拝戴した人を「ようぼく」と呼ぶようになったのです。
まとめ
おさづけの理を拝戴した人を「ようぼく」と呼ぶのは、ある意味、人間が決めたことです。
人間が決めた「ようぼく」です。
だからといって、人間が決めた「ようぼく」はダメだ、と言うつもりはありません。
「ようぼく」という立場だから、「ようぼく」と呼ばれるからこそ、人助けに向かう人もいるでしょう。
仮に積極的に人助けに向かえなくても、そういう心構えで通ることもできるでしょう。
そうやって年限を重ねていくことが大事だと、おさしづには書かれています。
人が決めた「ようぼく」になったときが、親神様が望む「よふぼく」へのスタートかもしれませんね。
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