人を育てるのに、叱る必要はない。でも難しいよ。深い愛情と覚悟が必要だからね。
「子どもを叱るのはもうやめる」と決めた、ある公立小学校の取り組みを紹介した ネットニュースに賛否両論が集まっているという。問題行動を叱るのでなく、適切な行動をほめることで問題行動を減らしていく「スクールワイドPBS」という応用行動分析学に基づくメソッドを導入し、成果を上げつつあることを報じたものだ。それに対して「叱らないと単に勘違いした人間を増やすだけ」「ダメなことはダメと厳しくしかるのが教育」「公立学校教師はサービス業じゃない」などと反対意見を述べるコメントも多かった。ブラックで何が悪いと公言する森下社長に、この問題、どう考えますか? と聞いたら少し意外な答えが返ってきた。しかも生命の起源にまで言及するという、深い?話にたどりついてしまった。
叱るのはゼロで、全部褒めるでいい
俺がやってるのは、くじけても逃げずに自分の力で最後までやりとげさせること。そこに叱る必要など何もない。転んで泣いている子供がいても手を差し伸べて起こしてやるのではなく、「大丈夫、君なら一人で起き上がれる」と言い、起き上がるまで、励ましながら何時間でもついていてあげる。起き上がったら「ほら、できた」と言う。それだけ。でも、これは助けてあげるより、叱るより、実は難しい。起き上がるまで、ずっとついていてあげられるか、それは育てることに手を抜かないということだからね。愛情と覚悟が必要なんだよ。叱らない教育で失敗するのは、自主性を勘違いしたときじゃないかな。多くの子どもは楽をしたい、手抜きをしたいと思う。それは自主性とは違う。「僕はもうやりたくない」と子供が言ったときに、それを自主性だと勘違いして、その判断を尊重してしまってはいけない。いまは、宿題をやらないで、今日はもう寝ると本人が言ったら、その選択を尊重するという親ばかりだ。こんなときは、「あんたがやるまで私はここにいるから、眠くたってなんだって宿題やりな」と言って、昔のお母さんなら縫物でもしながらずっとついてる。子どもが泣いても、やり終わるまで決して許してはいけない。怠けない人間を作るためには大切なことだからね。この間、お母さんは一度も怒ってない。でも、子どもにとっては何より厳しい経験になる。教育とは、つまりこういうことだよ。ダメな人間にならないように、愛情を持って導いていく。そこに叱る必要性などないんだよ。
思わずカーッとなることは、否定しないよ
でも、叱ることや怒ることが悪いことだとは思わない。だって人間なんだから、思わずカーッとなることだってあるよ。俺はガキの頃からずっといたずら小僧でさ、しょっちゅう先生にも親にも張り倒されていた。小学校4年か5年の頃、俺の住んでたところにも電車が走るようになって、そのとき、線路にクギを置いてペチャンコになったものを2枚合わせて手裏剣を作るのが流行ったことがあった。そのとき、俺は創意工夫の人間だから、鉄じゃなくて材木を置いたらどうなるだろうと思って試したことがあった。子どもが運べる程度の材木だったんだけど、ギギギギーって大きな音を立てて電車が急停車。警察に怒られて、親父にビンタをくらった。蔵に閉じ込められて、暗くて怖いし、お腹はすくし、泣いて謝っても出してもらえない。せいぜい2~3時間だと思うんだが、俺には一晩中かと思うくらい長い時間に感じたよ。それで懲りたわけではなく、その後も俺はいたずら小僧だったけどな。だけど、何年か後に姉ちゃんが、「あのとき、お父さんずっと蔵の外に座ってたんだよ」と教えてくれた。ぶったたかれて、蔵に入れられてもめげなかったが、これには参った。親父の愛情を知って、びっくりしたよ。暴力はダメだという考え方がきれいごとになるのは、うちの親父のような起こり方もひっくるめて否定しちゃうからだと思うよ。愛があるからこその癇癪ってのもあるんだよ。暴力はダメだと思っていても、そんなこと忘れるくらいにカーッとしちゃうのは、その相手を大切に思っているからだろうし、人間同士である以上、あり得ること。これはネガティブな行動だとは思わない。暴力じゃないとは言わないけど、だからなんなの? ということ。
自分で選ぶから、スイッチが入る
乳幼児期から自学自習の習慣をつけ、子供の自立を促す「ヨコミネ式」という幼児教育法がある。無理強いはせずに子どもの自主性に任せる形で可能性を引き出していく。
俺はテレビ番組で見たんだが、3歳・4歳の子どもたちが、驚くほどの高さの跳び箱をどんどん飛んでいく。ところが、どうしても飛べない子がひとりいた。飛んだ子どもたちも頑張れーっと応援するが何回やっても飛べない。すると子どもたちが円陣を組んで、気合を入れた。そうしたら飛べちゃうの。ドラマみたいで嘘くさいと思いながらも、もう涙が止まらない。感動してよ。
途中、飛べない子に先生が何かささやいているシーンが何度かあったんだけど、「あのとき何を言ったんですか?」とレポーターが聞いたら、「嫌ならやめてもいいんだよ」と言ったと。
おそらく、その子は練習では飛べてたんじゃないかな。それが本番で緊張したのか飛べない。それが友達との円陣で平常心に戻ったのかもしれない。
ほかにも子どもたちが、ピアニカを演奏したり、論語を暗記したりする様子も映し出されていた。おもしろいエピソードの紹介もあったんだけど、論語の暗記をしていた子どもの一人が、お姉ちゃんにいじめられたときに言い返した言葉が「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」だったと。聞いてた親がびっくりして、意味わかってるのかと尋ねたら、あんまりわからんと言ったそうだ。
ヨコミネ式は、子どもの才能を伸ばすスイッチとして4つを上げていて、そのひとつが「子どもは競争したがる」ということ。勝って喜んでも負けて悔しがっても、どちらも「もっとがんばる」と言うスイッチが入る。これは子どもに限らず、大人にも同じスイッチはあるよね。人間は、挑戦してうまくいったり、いかなかったり、一喜一憂することで「生」を感じる。これはね、それ自体が成長につながってるからだよ。成長を実感できるからだよ。
2つ目は「子どもは真似をしたがる」。無理にさせるのでなく、できる子の姿を見せるのがポイントなのだそうだ。3つ目は、「子どもはちょっとだけ難しいことをしたがる」。簡単すぎると飽きてしまうし、難しすぎると意欲がなくなる。だから「ちょっと難しい」を設定して、少しずつレベルを上げていく。最後は「子どもは認められたがる」。チャレンジしたことを認めてあげることで、さらなるモチベーションにつながる。
子どもたちは、挑戦することを自分で選んでいるから頑張るんだよね。自主性を持って、みんなでやると言う形で作り上げていったものだから、これだけのことができるようになるんだろう。ここでも、できないからと言って先生は怒ることはない。やめてもいいよと逃げも許す。それでも子供たちは自主的に頑張る。できたらみんなで喜ぶ。それが才能を引き出していく。
同じことは大人にも言える。自主性を持って挑戦することがいかに大切か。
自主性は、楽な道を選ぶことではない
地球は46億年前に誕生し、40億年前に生命が生まれたと考えられている。最初に生まれた生命は、生命としての最低条件を満たす原始的なものだった。では、その最低条件とは何か?
それは「膜を持つこと」「エネルギー代謝をすること」「自分の分身や子孫を残すこと」の3つなのだそうだ。膜で自分と外界を隔てることで、細胞のような空間を作り出すことができ、膜の内部で、食べたり吸収したりしたものからエネルギーを取り出して活動し、自分の分身や子孫を残す。これが鉱物などの非生命体と生命体の違いというわけだ。
そうすると、結婚しないという奴は生命としての条件を満たしていないんじゃないか?生命という大きな視線で見ると、そういう見方ができるということも否定できないよな。自主性は大事だと話してきたが、子孫を残す、残さないを自主性に任せてしまうと、それは生命ではなくなってしまうということ。その結果、いつしか人間は絶滅してしまうかもしれない。念のため言っておくが、LGBTを否定するつもりはないよ。
ビジネスにおいても、単純に自主性があればいいってものでもない。テンポスは1000億円企業を目指しているけど、これは自主性がなくてもできる。既存事業を頑張ってコツコツと大きくしていけば、いつかは1000億円に到達するからね。
だけど、実際は既存事業だけではいつか頭打ちになる。俺は1000億円で満足するつもりはないし。だから既存事業を伸ばしながら、新しい事業にも取り組んでいかなければいけない。その時に必要になるのが挑戦・改革だ。
これは今までと同じことやってたんではダメだ。何をやって何をやらないか、自分で選んでいかないといけない。だけど自主性があって、次々と新しいことをやるんだけど、どれも続かないということがある。これじゃ仕事にならない。形に仕上げていくためには、コツコツ積み上げていくこともできないといけない。
新しいビジネスを始めるのは挑戦することなんだけど、挑戦したことをビジネスという仕組みに昇華させていくのには、時間がかかるんだよ。我慢も必要なんだよ。挑戦を途中で辞める決断も大切だけど、うまくいかないとか、飽きたとかで、すぐやめるようでは、それこそ子供のわがままと一緒だよ。
自主性は、楽な道を選ぶと言うことではない。我慢することのない自主性はない。これは肝に銘じてほしいと思う。
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