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「一冊本屋 青い小窓」の存在意義

2024年10月に開店した『一冊本屋 青い小窓』。
この本屋は「チャレンジしたい人の背中を押す」がコンセプトだ。青と白の朗らかな空間内で本をきっかけに多様な人が繋がり、棚店主達が自分の得意分野で小さなイベントを開催して周りの人達に新たなチャレンジのキッカケを提供する。そんな店になれば良いなと夢見ている。

ただ冷静に考えると本当に「チャレンジ」を提供する場は必要だろうか。もっと言えば人間に「チャレンジ」する事自体は必要なのだろうか。肌感では必要だと思えるのだが、ちゃんと考えると果たしてどうなのだろう。人間はいつか必ず死ぬし、別に墓場まで積み重ねてきた努力を持っていける訳でもないのに、なぜ苦しい思いをしてチャレンジする必要があるのだろうか。むしろ毎日ボンヤリ生きていく方が楽で良いのではないだろうか。そんな問いからスタートしてみたいと思う。

さて、人間は必ず死ぬと先述したが、そもそも僕個人が生きている意味はあるのだろうか。皆さんの意見が気になるところではあるが、僕が一旦出した答えは「生きる意味はない」である。ここは話すと長くなるので割愛するが、要するに僕自身がこの世の中に必ず存在しなければならない理由など無いと言い換える事も出来る。よって僕はこの世に居ても居なくてもどちらでも良いのだが、だからと言って死ねる訳でもない(希死念慮もない)。それは意志の問題ではなく生物としてそういう風に出来ているからだ。もし本気で死にたいのであれば過度なストレスによるプログラミングエラーが起きている可能性が高い。

つまり僕は「生きちゃっている」状態だとも言える。これはもはや死への諦めに近い。なので、どうせ生きるしか選択肢が無いのであれば「幸せ」になりたいのだが、そもそも「幸せ」って何なのだろうか。お金が沢山あって、綺麗な奥さんが居て、可愛い子供達が居る状況なのだろうか。でもそんなのは恐らくケースバイケースで、もしかしたら先述の全てが揃っていても不幸に感じている人も居るだろう。逆にジェンダーの問題でその条件達成が難しい人が生まれた瞬間から不幸と決定づけられるわけでもない。では改めて「幸せ」って何なのだろう。僕個人としては「刺激と癒しを感じている瞬間」という答えが現状では最もしっくりくる。これはあくまで僕の肌感で万人に当てはまる訳ではないのは重々承知だ。具体例として挙げるなら、目標を達成した瞬間(=刺激)や友人と酒を酌み交わしている瞬間(=癒し)だろう。言い換えると「刺激」はアドレナリンやドーパミンが、「癒し」はオキシトシンやセロトニンが分泌されている状態かもしれない。そしてその状態が時期によって程度に差はあれど、持続的に続いていく状態が幸せなのだろうと今の僕は思っている。ちなみに質問なのだけど、これが「サスティナブルでウェルビーイングな状態」という認識で合っているのでしょうか。賢い方教えてください。

閑話休題。

さて幸せな瞬間を生み出す要因と仮定した「刺激」と「癒し」であるが、どちらかだけあれば良い訳ではないと思っている。例えばずーっと酒を飲みながら猫の動画を見ているのも悪くはないが、それだけだと物足りない上に生活水準はもしかしたらどんどん下がっていくだろう。逆にずっと仕事に打ち込んでアドレナリンがドバドバの状態が続くと必ずどこかで心と体が磨耗して破綻する。あくまで持続的に「刺激」と「癒し」の両輪を回せている状況が望ましい。

ここで1つ思うのが「癒し」は「刺激」に比べて比較的簡単に手に入れられるという事だ。野に咲く花を愛でているだけでも癒されるし、日光浴しているだけでも充分だろう。それに対して「刺激」は少しハードルが高い。まだ見ぬ物事に出会えた時に刺激は生じるので、コンフォートゾーンに居る場合は自ら未知の環境に身を投じる必要があるし、その上しばらくすると慣れてしまう。実体験として、あんなに憧れていた喫茶店経営だって5年目になると日常になってくるし、喫茶巡りをしても大体は「想像の範囲だな」と感じてしまう。別に「飽き」は元々生物に備わっている本能なのでそれ自体は悪い事ではないが、それによって店のサービスの質が低下した場合は自分にとってもお客さんにとっても不幸な事なので注意しなければならない。

話を戻すと必ず人間は生きていく中でマンネリを起こす瞬間があり、それは年齢を重ねていくうちにそうなる頻度が上がっていくだろう。これが常態化すると生活にハリが無くなり、徐々に楽な方へ流されていくうちに、不満はないが常に非満足な人生になってしまう。別にそんな人生も悪くはないのだろうが、「僕」はそうなりたくはない。(※あくまでこのベクトルは僕に向けられたものであり、他人の人生を否定したい訳ではない事はご理解をお願いします)

つまり「刺激」に関しては意識して掴みに行かなければならない。要は未知の領域に飛び込む、即ちチャレンジがないと「刺激」のない人生に進んでいくわけだ。そんな人生は僕にとって幸せな状態ではないし、もしかしたら同じように感じている人も居るはずだろう。よって「チャレンジ」は幸せに生きていくために必要なのである。

では「チャレンジの場」は必要なのだろうか。未知の世界への挑戦を1人で出来てしまう人も居るだろう。しかし大半の人間は自分の意志だけで何かにチャレンジ出来るほど強くはないと思う。僕は間違いなくそうだ。何かにチャレンジする時には必ず周りに誰かの支えがあって、仮に失敗しても大丈夫なようにセーフティーネットが存在しているような気がする。もしそれが無い状況でのチャレンジはもはや博打だ。ちなみに僕の場合は、「全てを失ったらヒッチハイクでもしながら全国を旅すれば良い」というメンタルがセーフティーネットではあるが、それも恐らくそんな人生でも面白がってくれる人達が周りに居るはずという思いがベースにあるからだろう。やはりチャレンジには周りからの応援が不可欠で、そんな応援の文化があるコミュニティの存在が望ましい。だから「チャレンジの場」は必要なのである。

話を冒頭に戻すと、人には「チャレンジ」も「チャレンジする場」も必要であると思う。そして青い小窓で皆さんに借りて頂く棚はただ本を売るための棚ではなく、自分が幸せに生きることを応援してくれるコミュニティに所属する切符だと思って貰えたらこの上なく嬉しい。


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