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畳5畳半との別れ

なにぶん古い寮の押し入れというものは、
大事にしているものほどそこに仕舞っておく気にはなれないもので。
少しずつ部屋の隅に追いやり、
ふと気が付くと彼らは埃をかぶっていることがざらであった。

その時に気づかなかったのだが、
本来の僕は埃をかぶった物を見つければ
即座にふき取る性分であったはずだ。

よくよく気にしてみると

服はどれもよれよれだったし、
玄関の靴もつま先やソールに穴が開いている。
洗面台の切れた照明には蜘蛛の巣が張っていた。
郵便受けに入っているチラシも放置。
一年前に買った自転車はタイヤの空気がとうに抜け、車体は錆びだらけだった。

研究に集中するあまり普段から注視すべきものを見るための視野が狭まった、
というよりは
身の回りがそうした劣気を纏った状態を認識していても
気に留めずに過ごす自分にすり代わっていたのだと思う。
そのうえ別に客人が来る家でもないし、
多分どうでもよいと敢えて見過ごしていたのだろう。

夏季休暇で久しぶりに実家に帰ると、
町育ちの母からは「野暮ったい」と小言を言われた。
幼馴染は僕の姿を上から下まで眺めて、なにか言葉を飲み込んだ表情をしていた。
京都の友人には「世捨て人みたいで逆におもろい」と言われた。

久しぶりに遠出をして懐かしい面々に会った後に、
数週間ぶりに寮に戻った。

物などほとんど置かれていないはずの部屋なのに
外は晴れていても部屋はどこか陰っていて
散々としているようにも思えた。

貧乏を言い訳に、自分はゆるやかに、しかし随分と自堕落な生活をしていたのではないかと。
よくよく考えてみれば、小物を放り投げるようになったし
ゴミを所定のごみ箱に放るよりビニール袋にいれてしばらく床に置いておいたり
カーペットをめくれば畳にはダークマターが。
とうに切れた電球も変えなかったし・・・

俺やばくね?

と思い始めた。

自ら選んだ環境ではあったものの
それに適応しようとするあまり、
気づけば染まっていたのだと気づいた。

たぶん「合わせる」と「染まる」は違う。
しかしその境界線が僕は曖昧になっていた。

そこからは
頻繁に掃除をして、
研究以外にも家計を回すようになり、
諸々の心がけも変える努力をしていった。

少し話は変わるが、地理学の分野に「環境決定論」という概念がある。
端的に言えば人間活動は自然環境の影響を受けそれに適応する結果として特性が生じる。
というものである。

これはなにも自然環境にとどまったものではないと思う。
人は環境に左右される。
これ自体は想像がしやすいと思う。
問題は「何」が「自分」に作用するかだ。
まさしく自分は畳五畳半の生活によからぬ形で染まっていた。

そこからは色々なことを考えるようになった。例えば、

まっすぐな道を歩いて帰る子どもと
曲がり角の多い道を歩いて帰る子どもでは
性格に何か違いがうまれるか

晴れが多い地域に住む人と
雨が多い地域に住む人は
目指す職業に偏りはあるか

決して積極的に干渉してこない、なんのことはない環境が
人に何かしら作用することはあるのかもしれない
などと考えるようになった。
心理学などの各論ではこういう問いもとうの昔に立ってるかとは思うが
敢えて自分は静かに物思いにふける。

無事修了した春先に寮を引き払うとき、
荷物は軽トラック一台分に積んでもお釣りが付くくらいの量だった。
しかしあの畳五畳半には物量とは関係ない者(物)達であふれていたように思う。

四年後、
よく掃除をするが気づけば部屋の隅に埃はたまっている。
未だに蒸かした芋を齧ればうまいと感じる。
物は大切にする、しかし靴はまあまあ履きつぶしている。

けどそれもいい。

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相も変わらずの駄文ではありましたが、「畳五畳半」でございました。

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