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「清潔感」の多様性

 私は、「清潔」という言葉と最も縁のない人間だ。コロナ禍になるまでは、落としたものでも平気で食べていたし、食事前に手を洗っていたかすら怪しい。今では到底考えられないような行動だ。
 そんな私が清潔を意識する瞬間があったとすれば、それは潔癖症の友達とのことである。その子はポテトチップスを食べる時には箸でつまみ、ことあるごとに手を洗っていた。今やっても別になんとも思わないのだろうが、コロナ前の私にとって、それは異質な行為だった。「そんなことされると、こっちが汚いみたいでイヤだな」そう思っていた。
 冬にインフルエンザが流行り、その子はマスクをするようになった。至近距離で話す時はマスクをしようよ、彼女はそう言っていたが、私は頑なにしなかったのを覚えている。周りの友達は彼女に合わせていた覚えがあるので、我ながら頑固なものだ。その根底にあったのは、「どうせ私は大丈夫」という思いだった。しかしその後、私はインフルエンザにかかることとなる。周りの友達は大丈夫な子が多かったが、1人だけ例外がいた。潔癖症の彼女である。私たちは仲が良く、よく一緒に過ごしていた。それゆえ密着して過ごしたため、どこかから菌をもらってきた私からうつったのだと思う。そこで初めて、私は清潔は自分のためだけのものではないと知った。コロナ禍でよく言われることであるが、マスクをしたり手を洗ったり、清潔に気を遣うことは自分の大切な人のためでもある。幸い大事にはいたらなかったからよかったものの、例えばそのうつした相手が祖父母であったらどうだっただろう。重症化してしまう可能性だってある。そこから私は、できる限り自分の身の回りを清潔にするようになった。
 コロナ禍となり、ますます清潔が大切な時代になったが、「コロナにかからないために」マスクや手洗いをするのも悪くはないと思うが、じゃあ自分がかかってもよければしなくていい、というのも違うのではないだろうか。大切なのは、自分がコロナにかかることで迷惑がかかる人がどれだけいるか考えることだと思う。
 私は自分の苦い経験から、清潔は「自分のため」だけではなく「人のため」でもあるということを身をもって学んだのであった。

#生活のマイルール


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