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藤田哲也博士と九州

はじめに

福岡管区気象台から3月24日に「藤田哲也博士の講演動画の公開について」お知らせが出ています。次段落はそこからの引用です。
藤田哲也博士(1920~1998 年)は福岡県北九州市出身の著名な気象学者で、1953 年にアメリカに渡られた後、竜巻の強度に関する藤田スケール(F スケール)の考案やダウンバーストの発見などの業績で世界的に知られています。このほど、藤田哲也博士が 1993 年 12 月 9 日に福岡管区気象台にて職員向けに行われた講演の撮影映像が福岡管区気象台に残されていることが分かりました。この講演は藤田博士が 73 歳の頃に行われたもので、日本語で行われた貴重な映像です。
私も2014年に福岡管区気象台に勤務しており、その年に北九州産業技術保存継承センターにおいて,特別企画展「山川健次郎と藤田 哲也~工学教育の先駆者と竜巻研究の開拓者~」が 開催されてそこに足を運びました。そこでの展示の中で下記の図と説明がありました。

北九州産業技術保存継承センター,特別企画展「山川健次郎と藤田 哲也~工学教育の先駆者と竜巻研究の開拓者~」展示より

ここで、藤田先生と福岡管区気象台との深いつながりを知り、今回の映像の発見とその公開により、さらに世の中に知られるようになったのではないかと思います。この藤田先生と福岡管区気象台との関係から、先生が渡米されて世界的な業績をあげたその背景も含めて、私なりにここで解説してみようと思います。
なお、藤田先生の足跡について気象研究所時代の同僚の堤さんがブログで詳しくわかりやすく解説されていますので、こちらもご覧ください。

九州時代の藤田先生

米国に渡る前の藤田先生の足跡は、日本気象学会の九州支部だより特別号(2014年12月発行)の藤田哲也博士記念会の橋本昭雄氏の記事があります。それと藤田先生ご自身の日本気象学会の藤原賞受賞記念講演が「天気」に掲載されています。
橋本氏の書かれた年譜からもわかりますが、少年から青年といった年代に、九州の自然観察を積み重ねていました。特に阿蘇や姶良といったカルデラの地形図の作成は、自然観察力を鍛えたのではないでしょうか。その後、長崎の原爆被害調査団としての経験、さらに桜島の大噴火の調査では、どちらも強い大気の鉛直流にも起因する特徴的な形状があり、その後のダウンバーストや竜巻の研究につながったのではないでしょうか。藤田先生の藤原賞受賞記念講演の中でも「1945年に,被爆約3週間後の長崎を訪れ,爆発の高さと爆風のパターンを調査して以来,局地的な嵐に興味を 持ちました」という記述があります。
その後、福岡管区気象台の川畑台長に励まされて、脊振山観測所長の大谷和夫氏と雷雨を観測しました。川畑台長は、陸軍測量部の天文観測から中央気象台に転任、福岡管区気象台長から観測部長という経歴の方のようです。脊振山観測所がどんなところかというと、今は無人化されていますがレーダーが置かれており、私も福岡在任中に訪問したことがあります。
このレーダーは九州北部の守り神のような存在で、標高983mという高さから雨雲を監視しています。ここには気象レーダーが設置される前から、観測所が置かれていて、初の山岳気象レーダーとしてこの観測所に設置されたことになります。新田次郎の「芙蓉の人」でも脊振山が登場しており、新田次郎こと藤原寛人さんがここにレーダーを置くことに関わったのかもしれませんね。こうした山岳官署では、泊まり込みで気象観測等を行なっていた時代が長く続き、3食自炊しながらの勤務が気象庁の伝統でもありました。

脊振山レーダー

このように下界から隔離された山の上の観測所で、藤田先生は気象台職員と一緒に積乱雲の観測をしてそれをまとめたのが先ほどの図となります。立体的に風の構造が描かれていて、特に下降気流を示したことが重要なのですが、下降気流そのものは観測できるものではなく、さまざまな状況証拠と雷雲の観察等からある仮定のもとで計算されたものだと考えられます。原爆の風や火山の大噴火の風などの推定で鍛えられた推察力の賜物ではないかと思います。
こうしてまとめられた研究成果が、米国にどう伝わったのかというところもドラマです。気象台の脊振山観測所は、脊振山の頂上から離れた尾根伝いにあります。脊振山の頂上には米国進駐軍のレーダー基地があり、朝鮮半島の監視の拠点になっていたようです。このレーダー基地内に捨てられてあったシカゴ大学のByers教授の雷雲に関する論文の住所を頼りに、同教授に脊振での研究結果を送ったところ、それが教授の目に止まり、そこから米国への招聘につながったということになります。気象台の脊振山観測所と米軍レーダー基地との当時の交流がどうだったのかまではわかりませんが、進駐軍として未知の地でもある九州、脊振山の気象について、気象台の職員を頼りにしていた背景もあったのではないかと推測されます。

藤田先生の渡米、そしてその社会貢献

そうして太平洋を渡ってシカゴ大学で研究することになった藤田先生ですが、その後のご活躍はさまざまなところで紹介されていますのでここでは述べません。藤田先生の研究成果がいまの日本の気象業務にどう活かされているのかを簡単に触れることにします。
その一つは、やはりMRトルネードと言われた竜巻研究です。竜巻は普通の気象観測網で捉えることが難しい水平スケールの小さな現象です。ですから、通常の気象観測結果により竜巻の強さを決めることはできません。そこで、竜巻の被害状況から竜巻の強さを推定しよう、というのが藤田先生のアプローチです。被害状況と竜巻の強さとの関係は、藤田先生のフィールドである米国で実施されてきたものでもあり、日本の家屋等の事情を踏まえた新しい指標(日本版改良藤田スケール(JEF))が2015年に策定されています。気象庁では、竜巻等の突風災害が発生したと見られる場合には、現地に気象台の職員を派遣して、突風が竜巻によるものであるかどうか、竜巻であればそのJEFスケールの推定も含めて速やかにプレス発表することになっています。こうして得られた突風災害のデータは竜巻等突風のデータベースとして気象庁のHPで整理・公表されています。
もう一つは航空機事故を引き起こすダウンバーストです。ダウンバーストは積乱雲に伴う強い下降気流が地面にぶつかり、そこから放射状に広がる一連の現象です。航空機は飛行機と空気との相対的な速度により揚力という上向きの力を受けて飛行します。下図のように着陸体制に入った航空機が向かい風では強い揚力を受けますが、追い風に変わると揚力が急に失われて急速に下降して最悪の場合には墜落することになります。

ダウンバーストが飛行機の着陸時に及ぼす影響 (気象庁HPより)https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kouku/2_kannsoku/23_draw/index8.html

こうしたダウンバーストによる事故を防止するために、主要な空港ではドップラーレーダーと呼ばれる降水粒子の動きから風を捉えるレーダーが整備されています。ダウンバーストに伴う風の特徴が検知された場合には、着陸を回避するなどの措置が取られます。こうした事故を防止する仕組みの導入は、藤田先生の研究が基盤となっています。
なお、ドップラーレーダーはメソサイクロンと呼ばれる竜巻を伴うことが多い微小な低気圧を捉えることができますので、竜巻の監視にも使われています。ドップラーレーダーでの監視と数値予報からの竜巻等の発生ポテンシャル情報から「竜巻注意情報」等の情報が発表されます。こうした情報が発表されるようになるためにはドップラーレーダーが全国的に配備されることが必要でした。2006年に宮崎県延岡市での列車転覆事故をもたらした竜巻と9名の犠牲者を出した北海道佐呂間町の竜巻が相次いだことから、竜巻情報の充実のためドップラーレーダーの展開が急ピッチで進められたことが背景にあります。

最後に

福岡管区気象台での講演の動画が発見されてそれが公開されたことがこの小文を書くきっかけとなりました。そもそも藤田先生のような米国の偉大な気象学者が晩年に気象庁の地方官署にすぎない福岡管区気象台を訪問して、このような講演されたこと自体、異例のことだったのかもしれません。ですが、福岡管区気象台の脊振山での観測研究がなければ、その後の藤田先生の大活躍がなかったかもしれない、ということを考えてみればなるほどと思います。さらにいえば、少年時代から父親に連れられて九州の自然を観察する機会を持ち、さらに火山や長崎原爆といった激しい爪痕をスケッチして洞察力を深めていたこと、こうした九州での経験あってのその後のご活躍だったのかもしれません。
私は福岡管区気象台勤務時に、日本気象学会の九州支部の「第5回こども気象学会」に九州支部長として参加しました。私の開会挨拶の一部を下記に転載して筆を置きます。
竜巻の研究で世界的に有名な気象学者だった藤田哲也博士(北九州市出身)も子供のころに父親とともに近くの海岸の干潟を観察したことや、小倉中学(現小倉高校)時代に平尾台の鍾乳洞を探検・観察したことが科学を探求する原点だったと聞いています。今日出席いただいた保護者の皆さんや先生方には、ぜひきっかけ作りをお願いしたいと思います。ここにお集まりの皆さん、そして来年、再来年のこども気象学会に参加される皆さんから、将来の日本の科学技術の担い手が生まれることを祈っています。







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