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有機的な機械とその監視員 - 菅亮平 Cube with Eye

友人の菅亮平が国分寺switch pointで展示をやるのでいってきた。
菅が国内で展示するのは2年ぶりとのこと。二年前には資生堂ギャラリーで展示している。リンクは二年前の展示である。

美術文脈で「ホワイトキューブ」といえば、美術館やギャラリーなどの展示スペースを指す。彼は長いこと何も飾られていないホワイトキューブを題材にした平面や映像を制作していて、今回もホワイトキューブネタなのだけど、いままでとは趣向も印象も違っている。

今回の Cube with Eye 展示を素描しておけば、おおきなアルミニウム製の立方体が展示室の真ん中に居座っており、その内部の映像がリアルタイムにディスプレイされている。この立方体の内部がホワイトキューブとして見立てられているが、中には壁が映るのみである(画像は筆者の腕が悪く青みがかっているが、奥に薄ぼんやり壁が見えるだろうか)。

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「なにも展示されていないホワイトキューブ」という主題はいままでの菅の作品を踏襲しているのだが、今回の作品では映像はモデル化されたホワイトキューブのサブシステムとして利用されている。この映像に現在の日時やどのカメラなのかといった文字情報が表示されており(カメラは一つしかないというのに)、監視カメラとしての意味づけが明確に行われている。

菅のいままでのスタイルは絵画に基礎づけられていて、とくにその強い没入性からは抽象表現主義へのリスペクトが伺えるものだった。ところが今回の作品はあえてその没入性を遮断している。不可視のホワイトキューブの映像はカメラの眼差しであることが明言されていて、鑑賞者としての「私」が排除されている。「私」の排除は、その映像のソースであると考えられるアルミニウムのボックスが何も語らぬ無機質な箱でしかないことによって二重化されている。

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展示室内部の代わりに目に入るのは、この仮想的なホワイトキューブを成り立たせる装置である。この装置はGRASBAU HAHN社のRK-2/5という実際に美術館で使われている湿度調整装置で、なんでも閉じた空間内の湿度をモニタリングし、自動で湿度調整してくれるというスグレモノである。守るべき作品もないのにホワイトキューブを自動で管理してくれているわけである。

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こういった装置が先程の無機質な箱の下に無造作に(とはいえ計算され尽くした配置で)置かれ、このなにもないホワイトキューブを半永久保存してくれる。しかもその装置はしっかりとデジタルデータも取得しており、そばに置かれたコンピュータにリアルタイムに反映される。監視のための設備として申し分ない。ぼくたちは情緒もクソもない監視システムの監視員なのだ。ぼくたちがやるべき仕事といえば、このアルミニウムの箱の中身をデータや監視映像を通じてモニタリングし、水分が足りなくなってくるとRK-2/5に水を補給することくらいだ。

サイバネティクスでは、機械は有機的なものだとされる。動物は有機的な機械である。動物は環境世界に対しアクションを起こし、世界からフィードバックを受け取り、自分の行動を修正する。この考えにあって身体とはモニタリング装置であり、主体とはモニターを監視する監視員である。菅のホワイトキューブが提示するのはこういったサイバネティックな機械というモデルである。この水分の循環システムのほうが、いわゆる作品然としたものよりよっぽど生き生きしている。ここに作品がないことによって、このシステムは死体を永久保存するための装置に見える。ぼくたちは死んでしまった芸術を半永久的に維持するための監視員としてこのフィードバックシステムに参与する。もちろん作品の盗難などがあればぼくたちは何かをしなければならない。何をすればいいのかはよくわからないし、そもそも守るべき作品もないのだけど。

サイバネティクスの鬼子であるところのパーソナルコンピュータがそのシステムに人間を取り込みはじめてから五十年も経つ。インターネット上での自分の活動はあらゆる角度から監視されているが、ぼくたちはそういったことは忘れ、自分こそがさまざまなデータをモニタリングし、なにか異常はないか監視しているのだと錯覚している。モーリス・メルロ=ポンティはサイバネティクスを「目覚めることのない眠り」だと言った。もはや監視員にまで成り下がってしまった自分については目が覚めることを望むべくもない。

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