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家猫に学ぶ・・・生きる意味とは何なのか?

いきなり重たいタイトルで恐縮です。
最近、知り合いの猫を預かる事が何回かあって、衣食住が足りた家猫って、毎日、生きるのが楽しいのか・・・とよく考えます。

毎日、餌をもらって、排泄して、寝るだけ。
家猫の世界は、飼い主の家の中だけです。
何が楽しくて生きているんだろうと思いますよね?
見ていると、そんな日常に、あまりストレスを感じている風でもありません。

しかし人間は、衣食住が足りると余計な事を考え始めます。
まぁ、子どもが居れば、子どもの成長が楽しみ・・・と言うのは有るでしょうが、子どもが居ない独り身の場合、何か目標が無ければ厄介です。

仕事が生き甲斐と言うなら問題は無いのですが、そう言う人は、ごく限られた人だと思います。
趣味が生き甲斐と言う人なら、割といるのでしょうか?

私のように、たいした趣味もなく、何とか衣食住は足りていて、時間も割とあると言うような人間が、一番困ります。
毎日、どうやって時間を潰そうかと・・・。

そもそも人間が、この地球上に生存している意味なんて無いと思っています。
たまたま、自然の流れに乗って、進化しただけでしょう。
もちろん生物には、種の保存という本能がありますが、今や、その本能すら希薄になっている、私のような人間も多いのではないでしょうか?

そうすると、生きるのは惰性になってしまいます。
積極的に死ぬ動機も無いから生きているだけ。
もはや、たまに得られる快楽のためだけに生きているわけです。
(快楽とは、性欲・食欲・睡眠欲などの事です。)

なら、快楽こそが生き甲斐なのか?
日々、快楽を求めて生きていけば良いのか?
煎じ詰めれば、そうなのかもしれません。

仕事が生き甲斐と言う人だって、名誉欲とか金銭欲の為に働いているのかもしれません。
趣味が生き甲斐と言う人も、その根本は、それが楽しいという快楽を求めているのでしょう。
子供の成長が生き甲斐と言う人だって同じです。

快楽こそ、人間が生きて行くモチベーションなのです。
とすれば、楽しい事、嬉しい事、気持ち良い事を追い求めて生きていけば、人間は満たされるのでしょうか?

それって、快楽主義ってやつですね。
古代ギリシャ哲学に、この考え方があるようです。
ネット検索すると、いろいろ難しい説明や解釈が載っています。

結局、古代ギリシャの賢人も、私のような現代の凡人も、考える事は同じなんですね。嬉しいような、悲しいような、ガッカリしたような・・・。

で、人間の生きる目的は、快楽を追い求める事と定義付けたとして、それをどうやって実践して行くのか?
楽しい事、気持ちの良い事、好きな事だけを選んで生きれば良いのでしょうか?
しかし、その為には、つまらない事、嫌な事、苦痛な事にも耐え忍ばなければなりません。

結局、今、誰もが実践している「普通の生き方」と変わらないですね。
家猫のように、あるがままを受け入れるのが人生なのかも・・・。

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