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Q:占い師が他流派の共存を気にしないのはなぜ?

A:どの占い師も「自分は当たる(正しい)」と思い込んでいるので、「当たらない(間違っている)他流派のことを気にする理由がない」と考えているからです。

いわゆる「姓名判断」とは、たくさんの異なった姓名判断の総称です。占い師が違うと、同一漢字の画数が違い、同一画数の吉凶も違い、判断ルールも違うので、結果も違います。

この状況を占い師はどう考えているのでしょうか。他流派のことが気にならないのでしょうか。答えはおそらく次の三つのどれかです。

① 「自分の方法が一番よく当たる」と確信しているので、気にする理由がない
② 「占いビジネス」として割り切っているので、ぜんぜん気にならない
③ 占い業界の新参者なので、他流派の存在や矛盾に気づいていない

この中で当ブログの関心を惹くのが①です。自ずと以下の疑問も続くからです。

・ 自分と対立する他流派がたくさんあるのに、喧嘩けんかせずに共存できるものか?
・ 「自分の方法が一番よく当たる」などと、本気で信じ続けられるものか?

●姓名判断の他流派批判

近年、他流派批判は下火になっているようです。お互いに決定打がないため、過度に相手を刺激したのでは、かえって墓穴を掘る恐れがあるのでしょう。

ですが、他流派を名指しで批判しないまでも、我田引水の眉唾まゆつばな理論を振りかざす流派は結構あります。「漢字は新字体の画数が正しい、いや旧字体だ」などが良い例です。

この手の論争は昭和初期からありますが、当時はずいぶん派手なバトルを繰り広げていました。第三者のプライバシーを侵害するような個人情報を、実名とともに記事にして、世間に公表したのです。こんな具合に。

熊﨑健翁氏は・・・『誤れる改名禍』と題する記事を掲げ、自分の流派以外の方法で改名して運命打開の不能であった実例を掲げておられるが、他の流派では・・・「妻を刺し、自らも相果てた医学博士・・・××氏も、熊﨑式によって改名されたものであった」などと、お互いに他派の方法で改名しても無効であったおびただしい実例を示し合っている・・・。

『姓名と運命』(吉武竹雄著、紀元書房、昭和12年)[*1]

●運勢の統計データなんて存在しない

各流派がこうした水掛け論に終始するのは、適切な統計データが無いからです。自分に都合の良いデータをほんの少し集めても意味がありません。データの偏りが著しく、どの流派も「自分の方法は当たる」と簡単に証明できてしまうからです。[注1]

そもそも人の運勢を占えるほどの統計データを集めるのは、とんでもなく困難な作業です。データの集計や分析も複雑で膨大な作業ですが、なによりも大勢のデータ提供者が必要です。[注2]

果たして、自分の運勢を詳しく他人に語りたがる人が世の中にどれだけいるでしょうか。現実には運勢の統計データなんて取りようがないのです。もし適切な統計データがあったなら、速攻で自分の偏見に気づくでしょう。[注3]

ですが、そんなデータが無くても、偏見に気づく機会はいくらでもあります。「わが子も自分も、未だに最高の人生を手に入れていないのはなぜか?」でもよいのです。

●自分の方法を確信すれば、他流派は存在しないに等しい

ところが、そうした客観的な視点がないと、「自分の方法は当たる」という思い込みから抜け出せません。少々の疑念くらいでは、「認知的不協和」がすぐ元のところへ連れ戻します。[注4]

そして「自分の方法は当たる ⇄ 自分は正しい → 間違っているのは他の流派だ」と考えてしまうのです。「自分の方法は当たる ⇄ 自分は正しい」は循環論法というやつです。この思考には出口がないのです。

すると、「自分は正しいのに、なんで間違っている他流派を気にしなくちゃいけないのか?」となるでしょう。現実をありのままに認識するには、まず 当たっていない ことに気づく必要があります。

==========<参考文献>=========
[*1] 『姓名と運命』(吉武竹雄著、紀元書房、昭和12年〔1937年〕)

============<注記>===========
[注1]本当に当るかどうか調べるには?
 詳しくはこちら ⇒ 『当たったのか?当たった気がしただけか?(2)

[注2]運勢データを集める作業はどのくらい大変か?
 詳しくはこちら ⇒ 『姓名判断の統計データは存在するか?

[注3] 適切な統計データさえあれば、速攻で偏見に気づく
詳しくはこちら ⇒ 『姓名判断を批判する人々(6):姓名判断を信じる研究生

[注4] 社会心理学者フェスティンガーの「認知的不協和の理論」
 詳しくはこちら ⇒ 『矛盾した流派が淘汰されないのはなぜ?

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