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未来を変えた?(3):イエスの魔術的命名

キリスト教の新約聖書のなかにも、名前の魔術的な影響力を匂わせるものがあります。

ご存知のように、新約聖書は四つの福音書、それと使徒行伝、書簡類、黙示録からなります。

その福音書のうち、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』はイエスの誕生にまつわる不思議なできごとを伝えています。イエスはなぜ「イエス」と命名されたか? その秘密がここに記されているのです。

●天使が命じたイエスの名

『マタイによる福音書』にイエス・キリストの誕生が出てくるのは第一章です。ヨセフのもとに天使が現れ、婚約者のマリアが身ごもっていることを告げるのですが、ここに少々気になるくだりがあります。

天使は、生まれてくる子が「男の子」であることを予言しただけでなく、その子に「イエス」と名付けるよう、ヨセフに命じたのです。[*1]

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

・・・ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

●「イエス」の名には魔術的な作用があった?

ここで問題は、天使がなぜイエスと名付けるようヨセフに命じたのか、ということです。

もしかしたら、イエスの名には何か魔術的ともいえる作用があり、どうしても「イエス」で なければならなかった のではないか。それ以外に「その子をイエスと名付けなさい」などと命じる理由があったでしょうか。[注1]

もちろん、イエスは神の子なので、天使がヨセフとマリアを気遣った可能性もないとは言えません。「神の子に人間が名前をつけるなど、あまりにもおそれ多いだろう」と。

しかし、『ルカによる福音書』を読むと、そうした人間的な感情や理性で説明がつくような理由ではない、という印象を強く受けます。

『ルカによる福音書』第一章では、イエスとともに、ヨハネの誕生までの経緯が同時進行で語られます。これが後に、イエスに洗礼を施すことになる洗礼者ヨハネですが、そこに登場する天使ガブリエルの言葉が、理不尽というか、とにかく非人間的なのです。

●天使が命じたヨハネの名

ヨハネもまた、イエスと同じように、聖霊に満たされて生まれますが、このとき将来の父親ザカリアはとんでもない災難に見舞われるのです。ザカリアの目の前に天使ガブリエルが現れ、妻が身ごもっていることを告げます。

「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」

『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

名前を選ぶ余地がないことも、イエスのときとまったく同じです。まるで「ヨハネ」以外の名前では意味がないかのようです。

ところで、ザカリアとエリサベトには長らく子どもがありませんでした。子どもを授かるのは喜ばしいことだったのですが、二人とも既に年をとっていたので、ザカリアには天使の言うことがにわかには信じられませんでした。こんな老人夫婦に子どもが生まれるはずはなかろうと。

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」

『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

すると突然、ザカリアに天罰がくだり、彼は口が利けなくなってしまったのです。ん!? いったい何が起こった?

●天使ガブリエルの理不尽な仕打ち

「せっかくよい知らせを持ってきてやったのに、私の言葉を疑うとは何ごとだ、こうしてやる!」 信じ難いことですが、天使ガブリエルは本当にこういう意味のことを言ったのです。誤解が無いように、聖書から引用しておきましょう。

「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

人間的な感覚をもってすれば、これはちょっとひど過ぎませんか。それはまぁ、天使の言うことを疑ったのは良くないですが、見たこともない不思議(というより不気味)な存在がいきなり眼前に現れたら、驚き怪しむのが普通でしょう。

悪魔が天使を装って自分を惑わそうとしているのかもしれないし、そう簡単に信じられるものではありません。

●天使ガブリエルの奇怪な姿

天使ガブリエルがこのときどんな姿で現れたか、福音書には具体的な記述がありません。が、別の情報源から推測すると、140対の翼を持ち、燦然さんぜんと輝く姿だったようです。

どうしてそんなことが分るのか? 約600年後にイスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)が確かに見たというのです。

ムハンマドは40歳のある夜、洞窟で瞑想していると、強烈な光線が彼のからだを射し、至福と悟りの感覚に圧倒されて意識を失いました。われに帰ると、そこに天使ガブリエルが立っており、後に『コーラン』として具体化される根本教義を授けてくれたというのです。[*2-4]

ムハンマドは天使の翼が140対あることを数えるだけの心理的余裕がありましたが――誰です? 「翼を数えるのが忙しくて、大切なメッセージを聞き落とさなかったか心配だ」なんて言っている人は!――ザカリアに同じだけの冷静さを要求するのは酷というものです。

聖書によると、「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」そうですが、無理もありません。こんな奇怪な生き物が目の前に現れたら、誰だって恐れずにはいられないでしょう。

しかし、天使ガブリエルの言葉はなんとも非情です。「わたしの言葉を信じなかったから、あなたは口が利けなくなる」とは・・・。

●天使の考えは人間に理解できない

それともうひとつ、腑に落ちないことがあります。マリアだってザカリアと同じように天使の言葉を疑っているのです。

ところがマリアはザカリアのような目にあっていません。天使ガブリエルからイエスを身ごもったと聞いた時、マリアは次のように言ったのです。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

マリアにだけ罰が下らないのは不公平ではないでしょうか?

それはともかく、ザカリアが生まれた子どもに「ヨハネ」と名付けたのは言うまでもありません。当時、子の名としては父親か親戚の名をつける習慣があったそうですが、これに逆らって、強いてヨハネと付けたのでした。[注2]

天使を疑っただけで口が利けなくなったくらいです。命令に背きでもしたら、どんな目に遭うか分ったものではありません。が、賢くもザカリアは命令に従い、やっと言葉の自由を取り戻したのでした。

では、天使ガブリエルはサディストだったのか?

いや、必ずしもそういうことではありません。人間の考えを単細胞生物のアメーバが理解できない(と思うのですが)ように、人間を超越した神や天使の考えを、人間が理解できないだけかもしれません。

少なくとも人間的感覚では説明がつかない不可解な理由があるらしい、とは言えるでしょう。

さて、だいぶ話が脇道にそれてしまいましたが、こういうわけで、『マタイによる福音書』の中で天使がヨセフとマリアを気遣った可能性は、まず無いと思うのです。

そこで、次のように考えたくなるわけです。「イエスの名そのものに何か特別な作用があるのではないか。イエスがイエスであるためには、どうしてもこの名前で なければならなかった のではないか」と。

●福音書の矛盾をどう考えるか?

ただ、こうした表面的な解釈に問題が無いわけではありません。というのは、福音書のあちこちに矛盾があるからです。

たとえば先の告知の場面でいうと、『ルカによる福音書』では、どうしたことか天使はヨセフの夢の中ではなく、マリアの目の前に現れたことになっています。[*1]

・・・天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。・・・天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・・マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

このように、『マタイによる福音書』と話が違っているのです。はたして、天使はヨセフに夢の中で告げたのか、それともマリアに直接会って告げたのか?

この矛盾はこの話全体の信憑性を損ねる恐れがあるので、はっきりさせておきたいところです。

考え方としては、次のようなものがあります。天使はヨセフとマリアの二人にことの次第を伝えたが、ヨセフには夢の中で、一方のマリアには目の前に現れた、というものです。これなら、双方の辻褄つじつまが合います。

実際、イエス誕生について書かれた別の福音書『ヤコブ原福音書』――これは新約聖書の正典に含まれていない――ではそうなっています。ヨセフが夢の中で天使からメッセージを受け取るのは、マリアが告知を受けてから数ヶ月も後なのです。[*5]

●まだまだある、福音書の矛盾

福音書の矛盾はこれだけではありません。『マタイによる福音書』と『マルコによる福音書』では、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことになっています。

ところが『ルカによる福音書』では、洗礼者ヨハネはイエスの洗礼より以前にヘロデ王によって牢に閉じ込められているのです。

そうなると『ルカによる福音書』では、イエスは洗礼者ヨハネ以外の人物から洗礼を受けたと考えざるを得ません。[*1、6] [補]

しかし、洗礼者ヨハネがイエスの洗礼に関与していないなら、福音書に彼が登場する意義は何だったのか、ということになるでしょう。

イエスに施した洗礼は、彼が神の子であることを証明する宗教的大事件だったはずです。このとき天が開いてイエスに神の霊がくだり、「イエスは神の子」という声が天から聞こえてきたからです。

「実はヨハネは、イエスの洗礼と何の関係もない、聖書の中の ちょい役 でした」などという説明は、とても受け入れられるものではありません。

『ルカによる福音書』では前後関係が混乱しているだけなのか? それとも、何かとんでもない秘密でもあるのか?

ただ、洗礼者ヨハネが牢に閉じ込められたまま、実際にイエスに洗礼を施した可能性もないとは言えません。たとえば、一方がドッペルゲンガー(分身、生霊)だったとか・・・。

洗礼で罪のけがれをきよめるほどの超能力者なら、自分の分身を作り出すくらい、どうってことないでしょう。分身を作り出す超能力が、罪の穢れをきよめるそれより難しいと考える理由はありませんから。

●もっとも気になる福音書の矛盾

福音書をじっくり読み込んでいくと、ほかにもいくつか疑問がでてきます。

「天使はマリアには直接会っているのに、ヨセフには夢の中でしか姿を現さないのは何故だ?」

それもありますが、この際、細かいことには目をつぶりましょう。もっと重大な疑問があります。イエス生誕の記述が事実に基づいていない恐れがあるのです。

聖書研究の成果からすると、『マタイによる福音書』は西暦80年代、『ルカによる福音書』はそれから数十年後の2世紀初め頃に書かれたことが分っています。

そしてどちらも『マルコによる福音書』と、『Q』と呼ばれる、今は失われてしまった別の福音書(実在したことは確実らしい)がもとになって作られたとされます。[*6-9] [注3]

ところが、『マルコによる福音書』にはイエス誕生の物語がでてきません。もとになる福音書に書かれていないことが、どうして後の福音書に出てくるのか?

もう一方の『Q』からもってきたのか? いや、それも多分ないでしょう。『Q』はイエスの語録と推定されているので、イエス誕生以前の神秘的な物語がそこに書いてあったとは考えにくいのです。

では処女懐胎の物語はどこからきたのか?

ここにプチ懐疑派をがっかりさせるような事実があります。イエス以前に処女が神または神的な人物を身ごもったとする神話・伝説は世界中にゴロゴロしていたのです。[*10]

・アドニス:バビロニアの神、処女イシュタルから生まれた。
・ディオニューソス:ギリシャの神、厩で処女から生まれた。
・クゥイリーヌス:古代ローマの救世主、処女から生まれた。
・クリシュナ:ヒンドゥー教の神、紀元前1200年頃、処女デーヴァキーから生まれた。
・インドラ:ヴェーダ神話の最高神、紀元前700年頃、チベットの処女から生まれた。
・ゾロアスター:ゾロアスター教の開祖、紀元前700~600年頃、処女から生まれた。
・ミトラ:ミトラ教の神、紀元前600年頃、厩で処女から生まれた。
・釈尊:仏教の開祖、紀元前600年頃、処女マーヤーから生まれた。
・アッティス:紀元前200年頃、フリギアの処女ナーマ(ナナ)から生まれた。

●イエス誕生の物語は本当か?

このように見てくると、イエス誕生の物語そのものがだんだん疑わしくなってきます。処女懐胎の物語は、その辺に転がっている神話・伝説から ちょいと失敬(しっけい)してきたのではないか、と思えてくるのです。

しかし、こうした疑惑は、イエスの魔術的命名に関して、信憑性を致命的に損ねるものではありません。処女懐胎の物語が、『マルコによる福音書』と『Q』以外の、まだ発見されていない資料や伝承に由来する可能性もゼロではないでしょう。

それに、処女が神を身ごもったとする多くの前例は、処女懐胎がそれほど現実離れした事件ではない、ということを示しているのかもしれません。いや、おそらく「事件」というには大げさすぎるくらい、ありふれた出来事だったのでしょう。

なにしろ彼らは人間を超越しているのです。「処女懐胎? それがどうした?」ってことで。ならば、イエスの物語をもうひとつ追加したからといって、何か問題があるでしょうか?

それでもイエスの命名にまつわる物語は、熱心なキリスト教徒でなければ、実際にあったこととして信じ難いかもしれません。

ですが、似たような話はわが国にもあるのです。しかもこちらは、特定の宗教に限定されない、「臨死体験」あるいは「シャーマニズム」という、より大きな枠組みの中で捉えるべき事件です。

その意味では、イエスの命名よりいっそう普遍性があるとも言えそうです。その話とは・・・。

=========<参考文献>=========
[*1] 『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)
[*2] 『錬金術』(マンリー・P・ホール著、人文書院)
[*3] 『世界の宗教と経典・総解説』(自由国民社)
[*4] 『天使辞典』(グスタフ・デイヴィッドスン著、創元社)
[*5] 『聖書外典偽典6 新約外典Ⅰ』(日本聖書学研究所編、教文館)
[*6] 『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(加藤隆著、大修館書店)
[*7] 『イエス証言の書・新約聖書』(岩波哲男著、『聖書をめぐる九の冒
   険』所収、ネスコ)
[*8] 『失われた福音書』(バートン・L・マック著、青土社)
[*9] 『真実のイエス』(イアン・ウィルソン著、紀伊国屋書店)
[*10] 『封印のイエス』(クリストファー・ナイト、ロバート・ロマス著、
   学習研究社)

==========<注記>=========
[注1] 「イエス」の名前の意味
 『ナザレのイエス プロローグ:降誕』によると、イエスの名前には「神は救いたもう」の意味があるという。

「ルカ(1・31)においても、マタイ(1・21)においても、「イエス(Jeshua 神は救いたもう)」の名が天使によって約束の子に与えられます・・・。イエスの名には・・・神の名(JHWH)が含まれており、それが「神は救いたもう」という言葉に発展させられています。」

『ナザレのイエス プロローグ:降誕』(名誉教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著、
春秋社、2013年)

[注2] 洗礼者ヨハネの命名
 洗礼者ヨハネの名がどのような状況で付けられたか、『ルカによる福音書』には次のように記されている。

「さて、月が満ちて、エリザベトは男の子を産んだ。・・・人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」

『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

[注3] 失われた福音書『Q』
 マタイ福音書とルカ福音書は、マルコ福音書には見られない多くのイエスの語録を含んでいるが、そのほとんどが同一内容とのこと。この事実から、マタイ福音書とルカ福音書が、マルコ福音書のほかに、第二の文書資料を使用したことがわかる。この資料は、ドイツ語Quelle(「資料」の意)の頭文字をとって『Q』と呼ばれる。
<参考> 『失われた福音書』(バートン・L・マック著、青土社)

[補] イエスの洗礼にまつわる福音書の矛盾
 四福音書の中で、イエスが洗礼を受ける前後の状況は、次のように異なっている。

『マタイ福音書』
①洗礼者ヨハネが教えを説き始める
②イエスがヨハネから洗礼を受ける
③ヨハネは牢の中でイエスの行為を聞き、弟子をイエスのところへ送って、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせる
④ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデはヨハネを牢に入れていた。・・・ヨハネの首をはねさせた。

『マルコ福音書』
①洗礼者ヨハネが教えを説き始める
②イエスがヨハネから洗礼を受ける
③イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」ヘロデはこれを聞いて「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実はヘロデはヨハネを牢につないでいた。・・・ヨハネの首をはねさせた。

『ルカ福音書』
①洗礼者ヨハネが教えを説き始める
②ヘロデがヨハネを牢に閉じ込める
③イエスが洗礼を受ける(洗礼者は不明)
④ヨハネ(居場所は不明)はイエスの行為を聞き、弟子をイエスのところへ送って、「来るべき方あは、なたでしょうか」と尋ねさせる

『ヨハネ福音書』
①イエスはユダヤ地方に行って滞在し、(人々に)洗礼を授けていた。他方、ヨハネはサリムの近くのアイノンで(人々に)洗礼を授けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかった。
②ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。・・・」
③イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、〔その弟子たちが〕洗礼を授けていることが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行った。
④「彼(ヨハネ)は真理について証しをした。・・・わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。・・・わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」
⑤(ユダヤ人たちの手を逃れて)イエスは再び、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行き、そこに滞在した。

 <参考> 『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)

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