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姓名判断の正しい信じ方:プチ懐疑主義

ふだんは占いの類をまったく信じない人でも、わが子が生まれたりすると、少しでも良い名前を、と姓名判断を参考にするようです。

ペンネームや芸名を持つ人なら、仕事、健康、恋愛、お金などの問題で、困難に遭遇したとき、改名がきっかけで運が開けてくれたらと期待することもあるに違いありません。実際、芸能界やスポーツ界ではよく聞く話です。

どんな状況にあろうと、占いの必要性をまったく感じない人もいるでしょう。ですが、「信じてはいないが、ちょっと気になる」という人は意外に多いものです。

●信じることの合理性

姓名判断の論理は常識からだいぶ外れているので、これをそのまま受け入れるには抵抗があります。といって、理解できないもの、説明不能なものをあっさり切り捨てるのが合理的かといえば、これもまた極端すぎます。うまく説明できなくても、未知の原理や作用が存在しないとは限らないからです。

何かを信じたために損失を被ったり、取り返しのつかない事態に陥るようでは困ります。でも、信じることが何かのプラスになり、信じた場合のリスクが期待する効果に比べて十分小さいなら、信じたほうが お得 ではないでしょうか。

根拠がはっきりしなくても、信じることの合理性はあるといえます。つまり、信じることが問題なのではなく、信じ方が問題なのです。

●信じることは健康によい

人間にはもともと、何かを信じることで不安を解消しようとする性質があるようです。信じることで心理的に安定するらしいのです。

デューク大学医療センターのハロルド・コーニグ博士は、信仰が健康に及ぼす影響に関する1,000件以上の研究を検証したそうです。それによると、信仰を持たないことが死亡率に及ぼす影響は、四十年間にわたって一日にタバコを一箱ずつ吸い続けることに匹敵するそうです。[*1]

その他の多くの研究によると、信仰を持つことは、身体面だけでなく精神面での健康にも、よい影響を与えることがわかっています。

姓名判断と宗教を一緒にするなと怒られそうですが、信じることで似たような効果が得られる可能性は十分あるでしょう。

わが子に良い名前を付けてあげた、自分は良い名前に改名したと実感して快い気分になれるなら、そして自信が湧いてくるなら、それはそれで結構なことではありませんか。

●信じることのリスク

ところが、そうばかりも言っていられません。『占い師!』の著者、露木まさひろ氏が各種資料から算出された数字によると、日本人の約20%は姓名判断の信頼性を支持しているといいます。また占い全般については、「占いは当たるし、信用できる」とする盲信派が4%もいるそうです。[*2]

姓名判断は人気の高い占いのひとつだそうですから、姓名判断の盲信派もこれに近い数字なのでしょう。とすると、これがそのまま姓名判断に悩む人の比率になるかもしれないのです。

姓名判断の占い本やWebサイトもいろいろですが、中には利用者が不安になるようなことを断定的に書いているものがあります。もし、読者が運悪く、そうした良心的とは言いがたい占い本を手にしたり、占いサイトを見てしまったら、どういうことになるでしょうか。

先の数字からすると、100人中20人が悩み、そのうち数人は深刻な問題を抱える恐れがあるということです。これはもはや、合理的な信じ方をはるかに通り越した、信じ過ぎの弊害と言っていいでしょう。

●合理的な信じ方とは?

では、「合理的な信じ方」とはいったいどんな信じ方なのか?それは、「安全な範囲で信じること、信じたときのリスクをきちんとわきまえること」です。

たとえば、最先端の医療技術でも治らない病人が信仰治療に頼るのは合理的ですが、現代医療で簡単に治る病気を信仰治療に頼るとしたら、合理的とは言えません。

前者は打てる手をすべて打ち尽くしたので、どんなに可能性が小さくても、別の方法を試してみる価値があります。でも、後者は確実な方法を後回しにしたために、手遅れになるリスクがあるのです。

同様に、受験生が勉強そっちのけで朝から晩まで「学問の神様」を拝みつづけるのは、合理的ではありません。そんな暇があったら勉強に専念すべきでしょう。一方、受験勉強をおろそかにしない範囲で神頼みするなら、こんどは合理的ということになります。

もし神が実在すれば、熱意に感応して合格を約束してくれるかもしれないし、神が実在しないとしても、精神安定には役立つでしょう。その昔、パスカルとかいう哲学者がこれと似たようなことを真剣に考えたそうです。

そして姓名判断なら、どの程度信じられるかを十分に吟味し、そのうえで可能性に応じた信じ方をすればよいのです。これが姓名判断の合理的な活用法というものでしょう。

●姓名判断はどのくらい信じられるか?

姓名判断には一部の占い師が断言するような華々はなばなしい効用があるとは思えませんが、ではまったく荒唐無稽かというと、必ずしもそうではないような気がします。

当否を断定するからには、その根拠を示すべきでしょう。メカニズムの説明はひとまず置くとしても、有効あるいは無効とする実証的な研究結果を示す必要があります。そのためには膨大な数の事例を収集し、複数の統計学者から徹底的に検証してもらわなくてはなりません。

しかし、私が調べた限り、肯定的であれ否定的であれ、そのような研究はこの世に存在しません。(そんなヒマな統計学者はいないということか?)

もちろん、姓名判断の専門家はそれなりの研究をやってきたでしょう。ただ、そうした研究の結果はあまり客観的ではなかったようです。

勘違いや思い込みは、いつでも誰にでも起こり得ます。彼らの誠実さを疑うわけではありませんが、誠実だからといって、主張していることが正しいとは限りませんから。

●姓名判断の正しい信じ方

では、どうするか? その可能性と効果の程度を利用者がさまざまな角度から自分なりに判断すれば良いのです。ここではそうした判断のための材料を提供していきたいと思います。

いろいろ知ることで、自分なりの判断ができるだけでなく、応用も利くようになります。それに「あなた任せ」では、怪しげな自称専門家から適当にごまかされても、気づきようがないでしょう?

なにかと自己責任が問われる現代ですが、世の中を信用し過ぎるのは考えものです。タバコの吸い過ぎと同じで、姓名判断も信じ過ぎには注意が必要です。しかし、あまり疑い過ぎると、折角のチャンスを見逃してしまうかもしれません。大切なのは懐疑と信用とのバランスです。

そこで提案したいのは「プチ懐疑主義」、つまり疑いながらもほんの少し信じるという姿勢です。「全体的には怪しいが、ひょっとしたら姓名判断には何かがあるかもしれない」というのが当ブログの基本的な立場です。[注]

==========<参考文献>=========
[*1] 『脳はいかにして<神>を見るか』(アンドリュー・ニューバーグ他著、PHP研究所)
[*2] 『占い師!』(露木まさひろ著、社会思想社)

==========<注記>=========
[注] 懐疑主義とプチ懐疑主義はどこが違うのか?
 懐疑主義は「疑わしいときは信じない」のに対し、プチ懐疑主義は「疑わしくても、損小利大が見込めるなら、少しだけ信じる」という違いがある。



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