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Q:画数を用いた姓名判断が中国発祥と誤解されるのはなぜ?

A:この方法を創案した元祖(日本人)の存在が忘れられ、起源を辿れなくなりました。その結果、漢字の本家は中国なので、中国発祥と誤解されるようになったのでしょう。

姓名判断の方法は時代によって流行がありますが、「現代の姓名判断」で代表的なものといえば、字画の合計数で吉凶判断する方法でしょう。これは日本で明治中期に作られた純国産です。

ところが、いつの間にか中国発祥と誤解されるようになりました。それには次のような背景があったのです。

●字画数で吉凶判断する技法の創案者

名前で運勢の吉凶を占う方法は大昔からありました。漢字音を用いた「人名反切」は平安時代の後期までさかのぼります。

ですが、字画数を用いるものとしては、江戸前期に現れた「易」を用いる方法以外はありませんでした。字画数で易の卦を立てるのです。

明治26年〔1893年〕、字画の合計数で吉凶判断する方法が初めて世に現れました。『古今諸名家 姓名善悪論 初編』(菊池准〔準〕一郎著)です。数がそのまま運勢の吉凶を暗示するという考え方なので、易の卦を立てる面倒がありません。これが現在の姓名判断で主流になっている数霊法です。

●姓名判断ブームの到来

この新しい姓名判断は、菊池氏が創案・紹介してから後、しばらくは世間で話題にもされませんでした。一時的に脚光を浴びたのは、一人の占い師が報知新聞に連載記事を書いたときです。そして明治末期~大正初期に第一次の姓名判断ブームがやってきます。[注1]

大正2年〔1913年〕、菊池氏の著書が出版されて約20年後のことです。ブーム最中さなかの東京では、姓名判断の本が街中にあふれ、数十軒もの姓名鑑定家がしのぎを削り、占い本を立ち売りする人も街の各所にいたそうです。[注2]

●忘れられた姓名判断の元祖

この姓名判断ブームで、大正末期までに大量の姓名判断書が後続の占い師たちによって書かれました。ところが、この人たちの著書には、創案者である「菊池准〔準〕一郎」の名前も、『古今諸名家 姓名善悪論 初編』の書名も、まったく出てきません。

それどころか、「われこそ元祖なり」と名乗る占い師が大勢いたのです。そうしたことも災いして、いよいよ本当の元祖が誰かわからなくなってしまいます。[注3]

さて、菊池準一郎氏が長期の諸国遊歴を終えて帰ってくると、東京は大変なことになっていました。自分が創始した姓名判断が東京市中に溢れていたのです。

急いで『続編』(大正3年〔1914年〕)を出版し、「この方法は自分が明治26年に創案・公表したものだ」と書中で訴えますが、当時の同業者たちには黙殺されてしまいます。無理もありません。すでに「元祖」は掃いて捨てるほどいたのですから。

●スーパースター、熊﨑健翁氏の登場

そうこうするうち、後にこの業界でもっとも有名になる占い師、熊﨑健翁氏が彗星のごとく現れます。彼は自身の新しい形式を「熊崎式姓名学」と命名し、従来の方法を旧式とけなしました。もと新聞記者だったこともあり、文筆力と著作の量で他の占い師を圧倒したようです。

熊﨑氏の方法は急速に広まりますが、それと同時に、従来の姓名判断を振り返る必要もなくなりました。明治・大正期にはスタンダードだった「五則」(5種類でワンセットの判断法)は、もはや過去の遺物でしかありません。

こうして「現代の姓名判断」の起源はすっかり忘れられたのです。そして、いつしか「漢字の本家である中国が発祥だろう」と誤解されるにいたったと考えられます。

●「熊崎式姓名学」の台湾・香港への伝播

真実は思いがけないところで見つかりました。中国系占いの本場、台湾です。台湾の占い師たちは、字画数を用いる姓名判断が日本製であることを認識していたのです。

楊鶴朋氏の次の証言は、熊﨑氏の方法がいかに台湾で広まったかをよく示しています。[注4]

台湾の姓名判断家は依然として日本の熊﨑式姓名学から一歩も出ていない。

『君王姓名秘言』(楊鶴朋著、武陵出版、台北市、1997年)

実はこうなのです。日本で熊﨑氏の姓名判断が流行していた頃、これを留学生が台湾に伝えたそうです。そして、台湾から香港にも伝わり、台湾・香港で流行した後、1980年代には中国大陸にも伝わったというのです。[注4]

熊﨑氏の方法は、当たるかどうかは別として、大変な影響力があったのは間違いありません。

===========<注記>==========
[注1] 報知新聞の「姓名判断」連載記事
 詳しくはこちら ⇒『発掘!「現代の姓名判断」の起源(7)

[注2] 新しい姓名判断の出現と大正初期の流行
 詳しくはこちら ⇒『「姓名判断は我が国百年の歴史」が本当だ(2)』

[注3] 「元祖」を僭称する占い師たち
 加田格堂氏は、自著『撰名秘法』(明治45年5月刊〔1912年〕)の序文で、およそ次のように書いている。これを見ても、当時、多くの自称「元祖」がいたことがわかる。

「近年、姓名判断の研究が盛んになってきたのは喜ばしい。しかし、「自分が発見・発明した」と主張するものが多く、たまたま教授を求めるものがあると、巨額の報酬を貪り、秘術とか秘伝とかいって、なかなか教えようとしない。私はこのような現状を嘆かわしく思い、この書を編纂して世の中に公表するものである。」

[注4] 楊鶴朋氏の証言と熊﨑式の台湾・香港への伝播
 こちらを参照⇒『「姓名判断は中国四千年の歴史」は本当か?

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