発掘!「現代の姓名判断」の起源(7)
「現代の姓名判断」の創成期に関わった人物のうち、海老名復一郎氏に続いて登場したのが佐々木盛夫、小関金山、高階鏡郭の各氏です。このうち高階氏は、著書の出版で小関氏に遅れをとりましたが、姓名鑑定家としての活動は小関氏より早く、佐々木氏とほぼ同時期のようです。
まず、佐々木、高階両氏について、二人とも自著の出版より新聞広告の方が時期的に先ですが、いずれも明治34年より遡ることはありません。当人がそう主張しているわけですから、これを疑う理由はないでしょう。
とすれば、菊池氏が『初編』(明治26年刊)を執筆したとき、彼らの姓名判断を参考にする機会が無かったことは確実です。
●佐々木氏と高階氏の交友関係
高階氏の『二百問答』には、佐々木氏との交友関係と新聞広告について、およそ次のように書かれています。高階氏は佐々木氏が姓名鑑定家として売り出す前から友人だったというのです。
高階氏自身も多数の新聞広告を出したようですが、この記述からすると、時期的に早かったのは佐々木氏であるとわかります。
なお、佐々木氏が新聞広告を出したのは、正しくは明治34年4月です。文中に「明治二十八、九年」とあるのは、高階氏の記憶違いでしょう。
●佐々木盛夫氏の種本は菊池氏の『初編』か?
佐々木氏の『新式姓名法』は解説文が少なく、『初編』と酷似する記述を探すのは容易ではありません。
彼がプロ活動を開始するより以前に、海老名氏の『姓名判断 新秘術』も出版されているので、こちらを種本にした可能性も考えるべきでしょう。しかし、佐々木氏の『新式姓名法』には次のような特徴があることから、それは無いと推定されます。[*2]
これらは佐々木氏が海老名氏の『姓名判断 新秘術』を参考に しなかった ことを示していると考えられます。
佐々木氏の『新式姓名法』は、菊池氏の『初編』と同様に、基礎的・体系的な説明が少なく、全般的に、解説文も少ない上に雑然としています。
海老名氏の『姓名判断 新秘術』はルールと手順がよく整理されているので、もしこれを種本にしていたら、もっと分かりやすい手引書になったはずです。[注1-2]
●佐々木盛夫氏の新聞広告
佐々木氏の『新式姓名法』は鑑定マニュアルとしては物足りないものでしたが、彼の果たした役割は別のところにありました。新聞を利用したメディア戦略の成功により、少数のマニアにしか知られていなかった「姓名判断」を一躍有名にしたのです。
明治34年4月、報知新聞の第一面に、数日にわたって姓名判断の紹介記事が連載されました。驚くのは、現代ならせいぜい社会面の隅っこに載るかどうかの記事が、堂々と一面トップを飾っていることです。
当時、新聞の果たす社会的役割は現代と違っていたのでしょうが、それにしても佐々木氏の『新式姓名法』はよほど珍しかったに違いありません。
4月1日の初回の記事には、次のようにあります。
新聞広告の威力は絶大だったらしく、佐々木氏の姓名判断は短期間に東京中で流行したようです。このことを北海タイムス新聞は次のように紹介したそうです。
●姓名判断を初めて新聞広告した人物
ところで、姓名判断の紹介に新聞を初めて利用したのは、実は佐々木盛夫氏ではなく、元祖の菊池准一郎氏だったようです。
菊池氏は自著の中で、明治23年に姓名判断の紹介記事を新聞2紙に掲載したと書いています。なんと、佐々木氏より10年も前なのです。ただ残念なことに、記事の確認作業が予想外に難航し、裏取りはできませんでした。時期を見て、また挑戦したいと思います。[注3]
それはともかく、菊池氏の記事は単発で終わったようなので、「メディア戦略の成功者」という意味では、やはり佐々木氏に軍配が上がるでしょう。時代の潮流が味方した結果かもしれませんが。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?