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輪郭を持たせない、持てないもの、目に見えないもの、誰にもわからないものについて

「見えない世界」というものがあるっていうのは、気づいていたような知っていたような否定のない曖昧な自覚で認識していた。

小さな頃の愛読書は星の王子さまやミヒャエルエンデといったファンタジックだけどすごくリアルな物語だったし、あこがれていたのはロアルドダールの描く魔女だったりしたから、その夢見がちな世界への目線をより盛り上げていた。おまじないの類も大好きだったし、小さな友達もずっといた。(それをイマジナリーフレンドと呼ぶことを大人になってから知ったけれど、わたしは今もあれは妖精だと思っている)

今も大切なことは目に見えないし言葉にはならないと思っているところもあって、そんなわたしを両親はドラえもんと呼ぶ。
場面に応じた都合の良い道具を出すのではなく、いつも夢の中にいて足が地面からちょっと浮いている、という意味らしいけど。あと兄弟2人がドラミちゃんくらいスーパーエリートで出来が良いので…とほほ。

特に、わたしは好きな人とうまく言葉をかわせないのがコンプレックスです。
恋する人、それはいつもその時にただ1人だけでその人がわたしの世界一だから、大切なことを口に出そうと思うとどんどんと言葉にならなくなる。世界一の前に立ちすくんで声が出ない。そりゃそうだ世界一だもの。
どうしよう、このままだとにらんでると思われる。困らせてしまう、気持ち悪がられてしまう!とドキドキしだして、笑って誤魔化して、ふんわりしたことしか言えない。にやにやしながら見つめることしかできない。
そしてそれは「なんだこいつ」といった風情で大概拒否される。悲しい。でもあきらめないのが私のいいところ。(相手はたまったもんじゃない)

いつだったか、見つめあったことがある。

椅子に座っていたのか、ベッドの中だったのか。ふと見つめてしまったとき、何も言葉にならなくてでも目を逸らさなかった。彼も見つめたままだった。
その時の私はなにかを言葉にしたい気持ちと、でも言葉にしたら消えてしまうような不安でなにも言葉にできなかった。
ただひたすら見つめることしかできなかった。

今思うとあの隙間のような時間は、数十秒以上あった体感なんかよりきっとずっと短くて、実際にはほんの数秒だったのかもしれないけれど、キスしたり抱きしめた時間よりも濃密である種美しかったのかもしれない。見えない心を捧げ合う、という意味においては。
もちろんこれも私の主観で想像でしかないし、幾重にも重なった偶然でしかない。

昔、わたしの記録係と命名した友人(わたしの恋を全て知っているので、わたしの葬儀を取り仕切る依頼もしている)と話していた時に「7秒見つめ合うと恋に落ちるらしい」と聞いて二人でなぜか必死にウインクの練習をした時があった。ウインクで気を引いて7秒に持ち込むという今思うと相当暇だったんだろうとしか思えない練習だけど、あながち間違いではなかったのかもしれない。
その成果もあってわたしはウインクがちょう得意。パチリ

見えない世界といえばもちろんタロットなんだけど、最近どうやって占っているのか聞かれて「う~~~ん」とうなってしまい、たどり着いたのが見えない世界の説明だった。

私は別に霊感もないし、タロットの勉強をひたすらしたわけでもないのでなんと説明していいかわからないんですが、タロット自体は多分みんな、誰でもできます。
それこそわたしはなんにもしていないというか、「なんか」が「なんか」言ってる、みたいな感じなんですよ。わたしはその「なんか」さんに「これってどうなる?」って聞いて「なんか」さんがカードに出して答えるだけっていう。解釈もなんもしてないです。

でもこの説明でへー!そうなんだ!って理解してくれたのは人生でまだ2人だけなので、ますます見えない世界とのシンパシーを自覚したのでした。
ただ、見えない世界とこの生きる世界には本当はないのだけど大きな隔たりがある。ある種人格化されるほどに強烈な意志のようなものあるので、こちら側とのバランスが取れず首がぐらぐらしてこちら側のことがよくわからなくなる時もある。危険。

なにかにつけ言葉にせよと強要してくるし、さらには140字以内という制限をもかけたりしてくる今の世の中。「誰か」が必要とし理解しやすい表現でかつ共通認識が持てて明白なことを端的に伝えることを強要されている気がする。
わたしもどちらかというとそういうタイプではあるけれど、ここ数日で観た映画だったり、友達と交わした会話でふと腑に落ちたのがこの「見えないこと」と「見つめる」ことだった。

波のまにまにただようような心を言葉にせず捧げあったり、名づけず輪郭を持たず、存在だけを受容し無形のままでいることを許しても良いのではないか。
恋心や、勇気や、悲しみと同じように、そのものに名付けることをせずその中に佇んだり溺れることも、伝えることと同等に美しいのではないだろうか。
そもそも、恋に限っては当事者にしかわからない、名付けられないものがある。恋人、愛、恋、それは「名前」であって本質ではないしその2人の間にしか存在しないのでそこに当てはめようというのがもともと無理な話でもある。それくらい心を捧げ合うという行為は無形で曖昧で流動的なのだ。

目は口ほどに物を言う、って本当だな。
とはいえ、何を考えてるか言葉にしてー!ってすぐになってしまうわたしもいるんですが…

画像はみんなでグッドバイブレーションを観る会用に作ったヨーグルトポムポム。美味しかった。

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