「私ときどきレッサーパンダ」
カナダ・トロントの移民の街で暮らす主人公のメイメイの様子を観て、思わずメイメイと同じように枕に顔を突っ伏し「あーーー!」と叫んでしまう方も多いのではないだろうか。
思春期特有の「あの」気持ち、出来事、まさに共感性羞恥心。
母や親戚、祖国のしきたりに従い、沿ってきたメイメイは自分に誇りを持って生きているようにみえるけど、強烈な自己発露に抗えなくなっている。
レッサーパンダはいわゆるメタファーではあるんだけど、根底には「自己」の確立が描かれていた。
私は幼少期、父方の祖母と暮らしていた。
大正生まれで戦争経験者の祖母は「いわゆる」大正生まれの女性だった。
兄と弟、真ん中の一人娘の私。母がとてもリベラルな人だったから救いがあったけど、祖母には実に厳しく育てられた。
祖母は厳しい人だった。
兄や弟は「男の子」として優位に育てられていたが「女の子」の私は常に叱られ「悪い子」だと言われていた。同じことをしても褒められない、同じことをしても叱られる。
言うことを聞かない子だといつも怒鳴られ叩かれていたのだけど、反抗的な私は「なぜ女の子だからってそんなことをしなければならないのだ」といつも祖母に反抗していた。
…というのが私の記憶だったけど、母から聞かされた記憶は少し違っていた。
ある日母が帰宅しいつものように「ただいま!わたしのかわいこちゃん達!」と兄弟3人を抱きしめようと手を広げた時(すいません母はメルヘンです)わたしだけが頭をぎゅっと守ってしゃがみ込んだそうだ。その瞬間、母はぞっとしたと。
母は保育士だった。
それは虐待を受ける子供の典型的な所作で、身体が反射的に自分を守るのだという。その頃の私は小さな弟をよくつねっていたそうで、それもまた虐待の負の連鎖ではないかと母は疑ったそうだ。祖母と話し、母はどうかやめて欲しいと懇願したそうだ。それでも、祖母には理解できなかった。
なぜならわたしは「女の子」で、勉強もできなくていい、ただ「嫁」に行くだけの女の子だから、必要なのは家事力と従順さだけだった。おさえつけて、一般的な女の子の趣味以外のものをわたしから排除しようとした。
いらない趣味だと絵の道具を全て捨てられたし、帰宅し兄とランドセルを投げるとわたしだけが殴られたし、食事の席でわたしには1番最後におかずが配られ、しゃべることも禁じられた。これは、わたしは何一つ覚えていなかったがのちに母から聞いた話だ。
母と兄弟はわたしを可哀想だと守った。特に兄はいつもわたしを守ってくれた。その様を断片的に覚えていることの一つが、兄の小さな背中に隠れて肩越しに見えたおばあちゃんの怖い顔で、それは記憶に焼き付いている。
私は幼少期とても身体が弱く入退院を繰り返していた。生まれた時にはこのまま死ぬと医師に言われ、父と祖父はお参りに行き、私が無事に家に帰れるようにと願掛けをし2人で小さな椅子を作った。父はその時、電鋸で薬指の先を落とした。父はそのおかげで私が助かったと思い込んでいて、私を薬指姫と呼ぶ。(すごく嫌だ)
その私を慈しみ育ててくれたことは、祖母もかわりない。体の不調を訴えるとすぐに休めるようにいつも準備してくれていたし、自転車でかかりつけの医師のところにいつも立ち漕ぎで猛ダッシュで連れて行ってくれていた。わたしが吐いたものを手で受け止めたこともあった。
命を慈しんでくれていた。
でも、女子供、という目線だっただけだしそれは彼女の生きた社会、ひいては戦争が作り出したものだった。
わたしは両親や兄弟のおかげでどんどん強くなり祖母に反抗し、殴られた記憶も消した。20歳過ぎてふと思い出した断片も、私にとっては傷つくようなものでもなかった。
あの映画みたいにシスターフッドはなかったけれど、最後のあのシーンはわたしと祖母のようだった。
わたしは、おばあちゃんが大好きだったし、今もそれを虐待と呼ぶには言葉が重すぎると思う。ただ、呪いのように巻き付いた感覚、それがフェミニズムだったりに消化されていくのだけど、祖母もまた、メイメイの母のように呪われていたのだ。
レッサーパンダはひとつのメタファーである、と書いたけれど、それは思春期の自己発露であり、初潮である(身体的表現お見事すぎる。においや手触り、体の変化に追いつかない気持ち死ぬほど共感した)
家族といることで、家族にとっての自分でいることは肯定的であり幸せなのだけど、自分になっていくこの過程は37Secondsを見たときのあの気持ちのようだった。
他者に肯定され始めて「自分」は輪郭を持ち始めるのだ。
それが友人たちなんてすばらしすぎる。まさにシスターフッド映画です。
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