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雨に唄えば

I'm singin' in the rain.
Just singin' in the rain.
 What a glorious feelin'
I'm happy again

一度はこの曲を聴いたことがある人は多いのではないだろうか。1952年にアメリカで封を切られ、未だミュージカル映画史において最高傑作と評価される屈指の名作である。
最近ふとした出来事でこの映画の話題が出て、数年ぶりに見返してみたのだが、この映画の素晴らしさを再確認したのでその熱量のままこの記事を書く。
今回は多分にネタバレを書いていくので、まだこの作品を観たことがない方は今すぐブラウザバックしてアマゾンプライムでの視聴をオススメする。


と言ってもこの映画を語り出したらダラダラと長い文章になってしまうので、この映画のタイトルになっている「雨に唄えば」という歌にフォーカスを当てて語っていきたい。

作中でこの曲が使用されるのは主に2箇所。
まずは主人公のドン・ロックウッドが雨の中タップダンスを踊るシーン。映画俳優として危機的状況に置かれながらも、親友のコズモと意中の女性キャシーのアイデアで活路を見出したところでこのシーンが始まる。
「どんな時も気高く生きる」を座右の銘とするドンが、我が世春と言わんばかりに軽快に踊る。ショーウィンドウの絵の女性にお辞儀をしたり、街灯に飛びついたり、傘を振り回したり、優雅に流れるBGM合わせてさながら少年のように茶目っ気全開で雨に濡れながら踊る。
そう、ドンは恋をしているのである。心の底から湧き上がる歓喜を抑えることなく、ウールのスーツを雨に晒す。終盤に至ってはもはや「ダンス」の体をなしていないほど乱暴に水たまりを蹴る。ドンは希望と愛に満ち満ちて仕方がないのだ。

シーンは飛んで、物語も終盤。キャシーとコズモのアイデアで生まれ変わった映画の完成披露試写会。ゴーストライターならぬゴーストシンガーとして、悪声リーナの口パクに合わせてキャシーが「雨に唄えば」をステージ裏で歌う。
ところがこのシーンでは、先ほどのドンのシーンと違ってかなりハイピッチで曲が進む。音楽的素養がないので私には分かりかねるが、キーはAフリット
会場の観客を虜にした美声で「雨に唄えば」を歌い上げるキャシーの表情も固い。事務的ですらある。
それもそのはず。キャシーは映画の、ひいてはドンの為を思って一度だけという約束の元リーナのアフレコを引き受けたのにも関わらず、ドンはキャシーに「ゴーストシンガーをしろ」と言い放つ。キャシーからすれば裏切られたも同然である。
このピッチが早いのは「早く終わらせたい」と思うキャシーの心情の表れではないだろうか。メタ的な事を言えば、曲のキーをAフラットにしたのも心が通ったと思っていたドンに対しての幻滅を、男女の進展具合をアルファベットで表す習わしに準(なぞら)えた暗喩なのかもしれない。
希望に満ちたドン、落胆したキャシー。同じ曲で正反対の心理描写の装置として、また単純に一曲としてとてつもなく心惹かれる歌である。

と、まぁ私なりにこの映画の好きなところを語ってきたわけだが、後世にまでそのタイトルが伝わる作品はそれだけ人を惹きつける魅力がある。皆さんも今一度、この映画を視聴してみたらいかがだろうか。


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