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8.6 ヒロシマの青い空は青いままで

退院までのを先に書ききろうかなとも考えたんだけども。

せっかくnoteなんて、ちょっと長く話せるものを始めたので、広島市民として8月6日のことを書いておこうと思う。

今年も暑い。
すごく暑い、いい天気だ。
何故か毎年8月6日は快晴な気がする。そんなわけないのだけど。

朝6時前、まだ日陰を移動すれば耐えられる暑さの内に、ふらっと散歩に出た。

雲一つない。下弦の月が沈もうとしていた。

早朝の運動する人たちに加えて、平和公園へ向かう人たちがいた。この時間なら式典の参列者だろうな。
ひっそり冥福を祈りたい方は、午前4時頃に慰霊碑の前で手を合わせていたりする。
祈り方は人それぞれだ。

身バレという程のことじゃないのでさくっと明かすが、私は「はだしのゲン」作者の故・中沢啓治さんが被爆した小学校の出身だったりする。
この学区も爆心地から1.2kmと近く、犠牲者は多い。

神崎国民学校(ヒロシマ平和メディアセンターホームページ)

https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?insight=20131128144209756_ja

この学区の犠牲者追悼のため、学校の隣の公園に慰霊碑が建てられた。もう30年ぐらい前の話で、最初の追悼式に出席し、作文を書いた記憶がある。
今もきれいに建っている。

毎年8月6日前後に学区の慰霊祭をする

私がもしあの日にいたら、死んでたんだろうなあ…

もう少しぶらぶらして、本川沿いを歩いていくと「県立広島工業学校動員学徒 原爆遭難の碑」がある。

県立広島工業学校(ヒロシマ平和メディアセンターホームページ)

現在の広島工業高校の前身で、当時は割と市内中心に近いところにあった。
学徒動員で作業中の生徒が原爆に遭ったのがこの本川の辺り。爆心地から600mの中島町。
200名を超える犠牲者が出たうえ、まともに遺体も見つからなかったという。

ジョギング中に手を合わせている人もちょくちょくいる

学徒動員で亡くなった生徒・教員の方は大変多い。6千人ぐらいになるそうだ。
動員の作業内容が、市内中心部での建物疎開だったからだろう。

そして子どもたちや教師たちだけじゃない。
原爆に殺された人の多さったらない。
年内に14万人、とんでもない数字だ。

午前8時15分という時間が、被害者を増やしたのだろうとも思う。
みんな目覚めてそれぞれの生活を始める時間だった。
でもみんなのいつもの生活は、始まらなかった。


どうしてこんな手に負えないなものが、世界にまだたくさんあるんだろう。
ずっと純粋に疑問だ。

私にとって平和教育、というか原爆との最初の接点は漫画「はだしのゲン」で、絵本「ひろしまのピカ」と「ピカドン」で、歌「青い空は」だった。
(どれもショッキングな内容なのでリンクは貼らない。)
目にする絵が、耳にする歌が、とにかく恐かった。
夢にも出た。自分が焼かれる、家族が焼かれる、友だちが焼かれる。家が、まちが焼かれる。

原体験がそれなので、私の核兵器反対の根っこにあるのは恐怖だ。
恐いからあれこれ調べた。話を聞いて、文献にあたって、身近にある慰霊碑の意味を知った。

今でも恐い。

大学の卒論でまで原爆の研究をして沢山のことを知って、なお恐い。
世界のどこかで使われる可能性も、それが私の頭上である可能性もゼロじゃないという現実が、本当に恐い。

原爆の恐ろしいものを見せたら、恐怖ばかりで実相が伝わらないのではという話を聞く。
それは尤もで、恐くてその先の知識を得ることを躊躇ってしまっては問題だと思う。
ただ私のように、崇高な精神でないけども、核兵器廃絶を願って知識を得る奴もいるんですという話。

あの日きっと一瞬で影まで燃え尽くされた人たちは、恐いなんてことさえ感じないままで殺されたのだろうな。


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