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「リアリティ」とは何か? 

よく、巷では「リアリティ」という言葉が使われる。それは映画や小説といった、フィクションの作品を評価するうえで「本物っぽい」という意味合いで使われるようだ。CGで作られた作品を見て、「あの恐竜、リアルだったよね」とか、恋愛ものの作品を見て、「リアリズムに徹していた」とか、そんな具合だろう。
 
さて、リアリティとは何だろう? 
 
自分は「手に取れるもの」のだと考えている。いや、別に考えていないのだが、ある種の心が通じる人々と接していたり、夜中に一人で散歩をしている時に「これはリアルだよなぁ」と手に取れるように目に見えないものを感じることがある。つまり、それは自分の内部にあるものというよりは、自分を浸透しつつもこの世界に充満するエーテルのようなもので、それが手に取れるように感じられた時に「こっちの方がリアルだよなぁ」としみじみと思うわけである。
 
つまり、リアリティとは、目に見えるものではなく、目に見えないのだが、手に取れるようにまざまざと感じられる、エネルギーのようなものである。
 
それはかりそめの肉体や、ちっぽけな自我よりもはるかに確かで、実在感があり、強烈なエネルギーを持っているので、目に見えるものよりも「リアル」に感じられる、という逆説が生まれるわけである。
 
リアルとは現実であり、リアリズムとは現実主義である。しかし、「現実とは何か?」と問われた時に、人間の生きる視野、立ち位置が、同時に問われることになる。そして、人は、小さな自我や、悪しきナショナリズムの背比べから抜け出し、「我」以上の巨大な力を感じ、それと共に生きることで、初めて他者と本当の意味で交流し、何かを伝え合うことができるのである。
 
唯物史観によって打ち立てられた共産主義は、人間をばらばらにしてしまった。
 
教条主義に陥った宗教は、宗教戦争を避けられなかった。
 
経済至上主義は、人間を動物以下に貶めてしまった。
 
人が人であるためには、「我」以上の単位が必要なのである。我と我の間を埋める充満するエーテルが……しかし、そのエーテルは観念的なものではなく、「手に取れる」ほどにまざまざとリアルに感じられるものではなくてはならない。かつてのネイティブアメリカンがグレートスピリットの中で生かされていたように。それは現実以上の現実なのだ。
 
自我という小さな単位を見つめ、余分なものを落とし、静まり返った状態の中に生きる時、そのリアリティはより確かに、より強く、より深く感じられるようになってくる。そしてそのような精神性の持ち主に奇遇にも出会い、交流する時、それは一つの手ごたえとなり、喜びとなる。
 
リアリティとは、「今、ここにある目に見えない何か」を感じ取る力である。
 
しかしその「何か」は、決して頭の中で思い浮かべたイメージや、理想的観念ではない。それは手に取れるものであり、何かを実現するものであり、現実生活で明晰に表現できるものでなくてはならない。
 
(アメブロ掲載記事2012年・改稿)

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