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既に奇妙に巻き込まれている(矢島朱海)

 『かぎろい』の中ではサビになるだろう、奇跡の乙女を中心に人々が奇怪な動きをする儀式シーン。音楽には『ナイトメアビフォアクリスマス』、『スパイダーマン』などの映画音楽を手掛け、『チャーリーとチョコレート工場』のウンパルンパの歌声も担ったダニー・エルフマンが監修した鍵盤楽器の四重奏が用いられている。鉄琴が繰り返す単調なメロディーが印象的だが、主旋律を他の楽器に入れ替えたり、音の数を刻むことで曲の波を生み、そうすることで聞いている誰もが盛り上がる部分が解るようにしているのは、映画音楽を手広く扱うダニー・エルフマンの妙技である。振り付けは、VIBE JAPANの2018年優勝グループであるUNVISIONに所属し、本公演で役者も務めたJin-Zoによるものだ。彼の活躍はなんと贅沢なことに稽古場を通してよく目にしていたが、人体の動かし方と見え方に鋭敏なセンスを備えており、さらに音を感じて身体で表現する心地よさを誰よりも知っていた。加えて儀式の中心で軽やかに舞う奇跡の乙女サアメを演じる加藤葉月もバレエに一家言持っている。彼女の体重移動はまことに優美でおそらく自然現象に近い。雨が風に撫でられて斜めに降るように、彼女は動いて見せる。この布陣と、アンサンブルによって作られた儀式シーンであるが、このシーンは何故2023年に生まれたのかという話をしていきたい。

 観客や、この“異教の祝祭”を目の当たりにするウーリ、更に異端派どもを処理するために送られてきた審問官ベラトは何をしてこの儀式に不気味さを覚えるのだろう。この作品に具体的な時代や宗教背景が設定されているわけではないが、おそらく現実で言う中世の出来事であろう。その時代、教会では音楽として認められるのは大いなる主に対する感謝と祈りを伝えるものに限られる。祈祷のポーズも教会の教えによるもの以外は形式に則っていないと一蹴されてしまう。しかし丘の僧院では人々は和気あいあいとし、奇跡の乙女と呼ばれるサアメは不思議な歌を口ずさみ、夜な夜な奇妙な儀式が行われている。僧院長であるアダに言わせれば「必要なこと」なのである。これは教えに反逆する目的などは一切なく、純粋に人として幸福な在り方を哲学する中で導かれたある種最も人間らしい行いなのである。音楽と踊りを抑制しない場所が、アダの作ろうとしていた家なのである。
 現代ではトラブルを避けるため、ライブ中の特定の行為を禁止する運営は珍しくない。コロナ禍においてはそれが加速し、席から立ち上がったり声を出すことも禁じられた。しかし本来、ルールが無ければ人はどういう動きをしたいのだろう。一つ疑問に思うのだ。あの儀式のシーンを見ていた観客が、客席を離れ舞台上に立ち、奇跡の少女を取り巻き体を揺らす群衆の中に参加していいのか。なぜ参加しないのか。鑑賞は、干渉になっても良いのではないか。ヒトとして心地よい行いをして何が悪いことがあるか。突然電車の中で歌い出してはいけないのか。それらの疑問と地続きにあるのだと、そう思いながら私もアンサンブルの1人として揺れていたわけだ。しかし当然、電車の中で大声を出している人がいればスマホで撮影をするのが現実だろう。このように人という社会性を持った生き物が、本能のまま行動することは奇異に写るのが世界だ。人々が整列し同じポーズをしてお祈りする人間社会になじみのあるウーリやベラトにとって、人々が静かに立ち吊革につかまり電車で移動する人間社会になじみのある観客にとってあの儀式シーンは奇妙に思えて仕方ない。

 奇妙で得体のしれないものはいつの時代も人を恐怖させ、その反面、人を惹きつけてきた。そう考えるとティム・バートンとよくタッグを組んだダニー・エルフマンの音楽がこの儀式に使われているとはよくできている。日本では『ジョジョの奇妙な冒険』や『世にも奇妙な物語』、海外で言えば『ストレンジャーシングス』など奇妙を冠した作品が見る人の心を鷲掴みにしている。またこれは私の言葉ではないが、日本人の“エモ”は“得も言われぬ”のエモだという一文は至言だと思う。ホラーや不気味さ、曖昧さなどが日本や若者にヒットする理由は先人たちが多くの文献を残しているので加筆するつもりはないが、やはりこの『かぎろい』の儀式シーンはそういう流行の中で生まれた作品として認識できる(流行に乗っただけの陳腐な演出という意味では無く、この作品を現代に生きる我々が見るうえでの補助線を引くことを目的にしている)。決してアーバンギャルドな演出でなく、綺麗で幸福なものを作ろうとして結果できたものであることが伝わっていることを願う。
 余計かも知れないが、ここで裏話のようなものを書かせていただくと、私が演じる審問官ベラトはこの儀式を“奇妙でおぞましいもの”として捉え、その演技を一番最後のサアメが中心となって踊るシーンでしなければならなかった。それも客席に挟まれた花道にいるので、感染対策などもあり声が出せないため表情と体の演技だけでそれをしなければならないのだから苦労した。夏からこの脚本を知っていた私はすでにある程度の紐解きを済ませており、この儀式シーンに違和感なぞ全く覚えなくなっていたどころか、振り付け師であるJin-Zoの考案したレッスン(サアメ役加藤葉月を中心に輪を作るようにして、加藤葉月がサアメの踊りをするのを目で見て真似る。しばらくしてサアメと輪を作ったアンサンブルの誰かが交代し、今度はその入れ替わった中心の人物の動きをまた周りが真似る。中心を次々に入れ替え、最後は全員がサアメになった気分で自由に踊る。)を通して快感さえ味わっていた。つまりベラトとして不快に思わなくてはいけないところを、そうは到底思えない私個人がいたということで、これにはとても苦労させられた。私自身、奇妙なものにはかなり目が無いのもあり、結果として普段自分が良いと思っているものを見せた時周りがドン引きした時のモノマネをすることでこのシーンを演じたが、今でもうっすら納得いっていない。私がおぞましいと思えそうなものを随時募集しています。

 儀式シーン以外にも、囁き声を重ねて祈りを唱える、物質から急に人の体になるように振舞うなどのギミックも奇妙という魅力をベースにしていて、そこが効果的に観客に何かを残したのであればこの公演は9割成功だろう(とか勝手に言っていいのかしら)。『かぎろい』への参加に後悔が全くなかったのは、このような時代の中での価値づけを私が私で見出したことが大きい。そのような舞台を構想してくれた西山珠生に謝辞を。最後に、最近見つけたお気に入りの奇妙なもの『西園電脳空間倶楽部CNES』をお勧めしてこの文に幕を引く。おしまい

(役者 / 矢島朱海)

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