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『かぎろい』は何を見せるのだろうか(中村仁)

 今作のタイトルであるかぎろいは、一体この作品に対してどんな意味をもっているのだろうとずっと考えていた。ひどく寒さの厳しい冬の夜明け前、東の空が白み朝日の気配が感じられる。それが一体私たちに何を示しているというのだろうか。
 作品には、正教の堕落と数年前の疫病を背景に、真に救いなる信仰と神への渇望が描かれる。主人公ウーリは正教の堕落を目の当たりにしながら正教の教えに一層敬虔につとめ、アダは正教にすべてを打ち砕かれ、自身の感覚と娘を信じ神の光の下へと邁進する。それはいずれも、未だ見る事の出来ない神の光を目指す、夜の常闇を手探りで進むようなものなのかもしれない。しかし、この物語の結末、アダは正教の手によって炎にかけられ、ウーリは結局活路を見出すには至らず、作家曰く彼はそのまま判然としない宙ぶらりんの信仰を抱えて生きていく。ここに察せられたかぎろいの光の気配は、一体何か。信仰の堕落と挫折を前に、神の光そのものが、一層ほの暗く到達できないものになった気がしてならない。
 私は今、どうしてかぎろいにはこんなにも閉塞感が付きまとうのだろうかと頭を抱えている。それは今作のタイトルであったことが多分に影響しているのかもしれないが。
 実は私は照明に悩みまくった末に、すべて投げ出して一旦かぎろいを見に行ってみた。なんかもうどうしようかという私の気持ちも相まって、その日見たかぎろいはやっぱり朝日の気配だけ感じさせながら、全然届く気がしない。それに体は寒さに固まり、ただただ漠然と立ち尽くすことしかできない。ただその光の気配をじっと見ていた。

 ウーリのことが実感をもって理解できた、なんてことは言いたくない。あんな風になるのは御免だから。かぎろいの光は、多分まだ何も示してない。ただただ、その先に光があるらしいことだけを伝えてくる。
 そして幻視譚の『かぎろい』は常闇の暗さと冷たさ、閉塞感を執拗なまでに実感させた。そしてその先の気配だけを私たちに示した。そこから先に向かうのは一重に私たちの覚悟と推進力なのかもしれないし、もしかしたら『かぎろい』に続編があって、続きの世界が語られるのか……。

(照明 / 中村仁)

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