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触れるということ(井上国太郎)

かぎろいが終わって2週間が経った。僕はこの間、かぎろいのことをほとんど思い出さずに済ませてきた(一度、自分の出演シーンを録画で見返した程度である)。公演だけでなく稽古期間も含む異様な1ヶ月は、日に日に現実味を失っている。それでも、自分の中に残っているものはあるだろうか。

もしかしたらそれは、「接触」の記憶かもしれない。僕は劇中、ほとんど何かに触れる/触れられる役を演じていた。例えば居酒屋でリーシュに喧嘩を吹っ掛るも、逆に指でツンツンあしらわれ、しどろもどろになる男。あるいは僧院を荒らし、アダを引っ捕えるベラトの従者。挑発や暴力という名の接触。それは僕が今まで避けて通ってきたもので、だからこそ正面から向き合いたいと願い続けてきたものでもある。

それから忘れてはならないのが、アンサンブルとして舞台上のユニットを移動させるときに生じる「接触」。ひょっとしたらこれが一番難しかったかもしれない。「僕」という一人称は解体され、ただの物質が、舞台上を這いずり回る。でもそんな物質が、実はユニット移動という目的を持って動いている。目的を隠して物質を演じようとすると、かえって演者の自我が浮き出てくる気がしたので、僕は逆にユニット移動という目的に没入することにした。結果はどうだっただろうか?

もう一つ、大事な「接触」がある。それは真実とは何かをめぐり、ウーリの心の中で起こる葛藤だ。おそらく、ウーリは僕と同じように「接触」に苦手意識のある人間である。「あなたにだって、愛しい存在に触れたいと思う気持ちぐらいあるでしょう?」という娼婦リーシュの問いかけを誤魔化し、夢の中でサアメに触れてしまって罪悪感にかられる。何事からも常に距離を保つことで自分を守ろうとするウーリの姿は、人ごとではない。

しかし、距離を取ることによって身を守ってきたウーリの内面では、相異なる二つの価値観が同居し、激しくぶつかり合っていた。より厳密に言えば、丘の僧院の登場によって、ウーリはタヌラエで育んできた価値観を大きく揺さぶられていた。そしてその揺れは、サアメやリーシュに代表されるように「接触」を伴うものだった。その「接触」はウーリを畏怖させ、同時に魅了もする。そうして激しい「接触=葛藤」を、ウーリの心の中にも引き起こすのである。

コロナ対策という観点に立てば(そしてもちろん、そんなものに依拠しなくても)、劇場はまさに濃厚「接触」の場だろう。かぎろいは、そんな劇場という場で表現されるにふさわしい物語だったのではないかと、舞台上にいた者としては言いたい。観劇いただいた方々にも、この作品が「接触」できていたら幸いだ。

(役者 / 井上国太郎)

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