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まぼろしをみるものがたり 後編(西山珠生)

前編と銘打って、夜明けの幻を綴った。ここでは、私たちがその幻を舞台上に立ち上げるまでの記憶をメインに思い返してみようと思う。

幻視と幻聴、信仰 ②

信仰するひと

 「珠生さんはこれがすごく宗教的だってことを自覚したほうがいい」何かの折に言われた。あるいは「学生がこういう話を、しかも王子でやるってのは、今の若い人が社会をこう見てるんだなっていう視点でも見られると思うし」そんなことも。……え、そう?いや、分かってるけど、、そうか、そういうもんか。なんて思った。
 この劇を書くにあたって、歴史上の時代・地域・出来事として語るべきでないことは、はじめから分かっていた。むろん中世の教会を描くのに付け焼刃の勉強で足りるはずはない。しかしそれを差し引いても、あえて距離を作り出しカトリックだと言わなかったこと、神に「父」と呼びかけなかったことは正しかったと思う。私がしたかったのは歴史や神学の検討でも、宗教制度の吟味でも、社会批判でも、あるいは謎解きでもなく、ひとりの人間が信仰すること、狂おしい愛(神への、大義への、あるいは娘への)を求めること、それに身を投じようとすること、息苦しい枠組みの中でもがく様子を、そんな世界の薄いひだの重なりを描くことだった。もちろん背景には私という書き手がこの世の中をどう生き、どう感じるかが透けて見えるのだろうが、ウーリの葛藤や、アダの苦悩や、サアメのみているものや、ククリの人々の日常の方が私にとっては切実だった。だから『かぎろい』においては、男女の認識や人の貴賤について、あるいは同性愛などに対する反応はさほど強調されない。時代観そのままに書けば、雑音となっただろう。
 信仰を描きたかった。
 程度の差こそあれ、私たちは信頼の置き場を、身を寄せる軒下を探している。宗教の教えかもしれない、権威かもしれない、愛情や人間関係、誰かの言葉、共同体の常識、今ならば情報かもしれない。もったいぶった言い方をすれば、人が、社会的存在として命をつなぐうえでのイデオロギーといったところか。そうした信仰は人を支え、生かすものであり、同時に人を縛って自由を奪い死に至らしめることもある。なにかに対する信仰に身をやつすこと、「殉教」するほどにその信仰と共に生きること——それはいかに幸福だろうか、いや、幸福なのだろうか。……愚かしく憐れむべきことだろうか。
 ウーリは信仰を探していた。タヌラエの教えはすでに腐敗して純粋なものとは言えず、彼の心を満たしてはくれなかった。そんな彼の穴を埋めたのが、アダの語る神だったのだろう。順番が違えばウーリはベラトの信奉者になっていたかもしれないよね、と笑い話をしたこともあった。彼も、そしてサアメに自らの生きる意味を託すアダもまた、信仰なしには生きられなかった。

 現代(の日本)に暮らす私たちは無宗教だと、信仰を失ったと、神はもはやないと、そう考える人が多いように思う。しかしきっとそうではない。ひざまずく対象の名前が変わっただけではないか。有史以来、私たちは自分たちの奉ずるものにこそ正義と正統が宿ると信じて、互いの信仰を呪い続けているのだから。私の中にもそんな信仰が根付いている。日本人で、女の身体で生まれたこと、珠生という名前、フライブルクで過ごした日々や、小さい頃から美術館で費やしてきた時間、盛岡に移り住んだ経験、小学校の「宗教」の授業、たくさんの翻訳小説、学校を休みがちだったこと、聴いた言葉の数々、美大を受けなかったこと、見た景色の数々、劇団綺畸に入ったこと、コロナ禍に劇を書き始めたこと——から成る信仰が。私の信仰が、私の世界を狭めつつも色鮮やかにすることを知っている。他者の見る世界を、その信仰をも知りたいと思う、けれどもそれにはいつも恐れが付きまとう。

声と身体

 舞台上では(ほぼ)なんだって許される。日本の大学生が異国の修道士や女子修道院長であってもよい。ひとりが3人の別人として登場してもよいし、礼拝堂が朝日差す草原に成り代わってもよい。観客と演者の空間は隔たっているようで溶け合っている。そして『かぎろい』は、なかなか古典的ではなかったか。コロス風のアンサンブルは別にしても、役柄の声がありそれの器となる身体がある、という感覚が私自身の根底にはあった。
 思い返してみると、この作品において私はまず声を提示し(冒頭の祈りやウーリのモノローグ、ハケ裏での会話など)その後に人の姿が見えるように作ろうとした。仄暗い照明がこれをうまく成立させてくれた。稽古場では人物の身体性——特に姿勢や仕草に重きが置かれていた。日常の身体のふるまいに、私たちはその人を判断するための膨大な情報を読み取っている。導師の身体、尼僧の身体、職人の身体、ごろつきの身体、そして石や風や恐怖や時間経過そのものとなるアンサンブルの身体。重なり合った音、声と言葉が身体と空間を作り出し、時に声と身体は唐突に切り離される。その時、私たちもまた幻視を、幻聴を体験する。
 ウーリやアダをはじめとする上流階級出身の人々は、形式に則った美しい所作を求められる環境に育った。彼らの身体は統制され滑らかに動く。彼らは身体を制御しようとし(もちろん常に成功するわけではない)、抑えられた立ちふるまいは彼らの威厳を支える。あるいは身体は発声する装置でありながら、声(言葉/思考)の受け皿に過ぎないと捉えることもできる。背景や時代観を考えるとあながち間違ってはいないのではなかろうか。
 対極に位置するのはサアメである。彼女は身体ゆえにあり、あえて言えば思考ではなく身体感覚を動機として動く。一方でその声は天(神)から与えられたものである。サアメは自我というよりも外界から加わる力によって振舞っており、つまり彼女が「御心のままに」生きているのだと私たちは表現していた。世界にとともに歌い踊る彼女から生まれる波はまた、他の人々にも伝播し突き動かしていく。

「女性の神秘家」

 『かぎろい』には幻視と幻聴が満ちていた。しかしまぼろしは決して現実と切り離されはしない。夢と現は地続きであり、人の手によって引かれた境界は絶えず揺らぐ。いつだって大いなる力は一見現実と思われぬ靄の向こうから語りかけてくる。
 9月公演の延期後、中世の「女性の神秘家」の言葉を収めた本を開くことがあった。ぱらぱらとページをめくる中で印象に残ったのが、彼女らが必ずと言ってよいほど「幻視」を用いて語ることだった。幻視を通して彼女らは神の声を聞き、世界の真理を経験する。日本語訳で読む彼女らの言葉は、非常に整然と記されたものから、時に無骨で、あるいはやさしく、また荒唐無稽で、高尚というより日常を思わせるものまであった。この女性たちのうちには、列聖された人物もいれば異端の疑いで火刑に処された人物もいた。そんな多様な宗教家たちが神学者としてでも思想家としてでもなく、「女性」の「神秘家」として一冊の本にまとめられることはとても興味深かった。人々の視線を集めるそのような存在がほかならぬ女性であることには、(時代特有の女性蔑視とか性差による制約とかを超えて)なにか根源的な意味が付きまとうのではなかろうか。一歩間違えば、魔女や異端の妖婦として弾圧すべき者となる。

 この2年『かぎろい』を作る中で、アダという存在は大きく変化してきた。初期の彼女はもっとどす黒く、権力欲とタヌラエに対する強い敵意を持ち、目的のためには手段を選ばない女性だった。設定を練って稽古もしつつ、さらに延期後の改稿を経てアダは大分ピュアなキャラクターに変貌した。生家を追われた少女がそのまま成長したような「母さま」である。
 ここ数か月、私にとって『かぎろい』の主人公はアダだった。ウーリがアダを発見していく物語を作る気持ちで稽古場にいた。アダにはきっと私自身の人生と、私の母を見る視線が投影されていたと思う。アダは強く、そして脆く、愛すべき人だ。彼女は様々な不幸に見舞われ、翻弄されてきた。弱い自分を嫌い、したたかな仮面を身に着けることを覚えた。それでも硝子細工のような自分を殺すことはかなわず、過去の幻影に苛まれることもある。
 彼女の愛は、娘を幸福にしただろうか。彼女の献身は、人を救っただろうか。守れなかった彼女自身の庭は、徒労に終わったのだろうか。アダは「殉教した」。彼女が最期、幸福であったらいいと、私は祈らずにはいられない。

おわりに

 コロナの流行で世界が変わり果てて3年が経った。綺畸の稽古場で異端の祝祭を思い立ってから2年近くが経った。やむにやまれぬ事情で公演が延期になってから半年が経った。演劇は言葉は、私の本業じゃないと言い続けて、いつのまにか舞台が私を構成する主要素のようになっている。稽古場にいる中でだんだん気付いたのだが、ウーリもアダもサアメも、みなそれぞれ私だった。彼らの弱さは私の弱さで、彼らの強さは私の決意で、そして私の夢だった。『かぎろい』に私のかなり多くをつぎ込んだ。それが必要だったと思える喜びをかみしめている。
 大学に入学した2019年からは想像もつかない暮らしをしている。何があるか分からないものだ。さてこれからどうしようと途方に暮れもするが、まあなるようになるのだろうと無責任に言ってみる。
 この数か月、私が説明に詰まったとき言葉を貸してくれる人がいた。私が飛ばし過ぎると引っ張って止めてくれる人がいた。私が抱えきれない荷物を持ってくれる人がいた。月並みかもしれないが、私の視界に踏み込んでくる人々あっての私であり、私の作品だと思う。彼らに、念のこもった感謝を捧げてこのあとがきを終える。

(主宰・脚本 演出 宣伝美術 / 西山珠生)

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