翻弄される主体、潔癖症-『ナミビアの砂漠』-
以下は『ナミビアの砂漠』の雑感である。不安定な身体に翻弄される主体の話、などなど。西島大介などと関連させつつ考えてみた。
映画中盤以降で、主人公:カナは双極性障害、いわゆる躁鬱のきらいを指摘されるが、ADHD(注意欠如・多動症)的なきらいも見られる。当然、両者の疾患には重なっている部分もあるし、劇中でも説明される通り、そういった疾患は綺麗に線引き出来たり、パッケージング出来るものでもないので一概に断定できないが、少なくとも、そういったきらいも垣間見える。(普通に躁状態だと多動的になるので、変にADHD的と言わなくてもよい。)
そのきらいは随所に散りばめられている。例えば、歩く/走るというアクションが劇中で多用される。冒頭から歩く被写体を捉える場面から始まり、俳優:河合由実がとにかく歩く。あるいは走る。歩道を歩き、森を練り歩き、部屋を徘徊し、店内を無目的にほっつき歩く。脱毛サロンの店内清掃の際も、モップで同じルートをグルグルと繰り返し周回する。と、思っていたら突如路頭で側転を始めたりする。多動症的なきらいはこれだけではない。キャンプ中に座っている椅子でじれったそうにして歩き始めたり、自宅の椅子で延々と回り続けたりする。もしくは動物的な食事。友人のスイーツを無造作に頬張り始めたり、冷蔵庫のハムを貪ったり、アイスを食べながらウロウロとしたりする。または、突如落ち着きなく何かを始めることも多い。(恐らく劇中で二回ほど)唐突に掃除を始めたり、喧嘩中に洗濯物を干したりする。突然声をあげることもある。
こうして書くとエネルギーに満ち満ちているように感じられるかもしれないが、そのほどでもない場面も極めて多い。エネルギーの切れている瞬間はとにかく動かない。寝起きはダルそうに時間をかけて起き上がるし、スマホを眺めているだけであることも多い。インターホンが鳴っても一度目は一切の無反応で、二度目でようやく腰を上げる。見ている動画も砂漠のラクダが映っているだけの、内容の少ないものだ。また、劇中でクラブに数回行くのだが一度も踊ることがない。多動症は非常に厄介なもので、エネルギーが有り余って動かずにいられないときと、エネルギーが枯渇して動けないときで分かれる。ADHDでお馴染みのマルチタスクも見られる。冒頭の「一つの話に集中できない」というくだりは勿論、凄まじいのは幻想の場面だろう。①動画の視聴②ランニング③食事を同時に行うマルチタスクぶりである。長時間の視聴に耐えられず、飽きて止めるところも含めて、ここまで書いた症状のすべてが乗っかっていると言って良い。
事程左様に、とにかくコントロールの効かない不安定な身体性を焼き付けることが演出の目玉となっていて、これが非常に機能している。衝動的な瞬間と呆けている瞬間が混在しており、その双方を幾度も行き来しながらも、行き先は不透明なまま、無軌道に進行していく。脚本・映像・編集が凄い。カナの突拍子のない衝動的な行動と同じように、この映画の編集もまた、極めて突拍子なく衝動的に振る舞う。仲睦まじく会話している場面とみっともなく大喧嘩をする場面を「突き飛ばす」アクションをマッチカットで繋ぐあの編集は勿論白眉だが、凄まじいのは場面の取捨選択だろう。さっきまで喧嘩していたのに少し別の場面を挟んで戻ってくると普通に仲直りして平穏に生活していたりする。その逆も勿論ある。あるいは、後輩と職場の外で話して去っていく場面の直後に家で「クビになった」ことを伝えるシーンがあるのだが、前後の繋がりからして「あ、無断退勤が原因でクビになったのかな」と思うが、実際には営業中の失言でクビになったと語られ、前後のシーンに時間的に大きな隔たりが現れる。様々な場面と場面が繋がれていながらその実距離が開いていたりする。突拍子がなく、衝動的だ。時間の流れ、話の流れがリニアにあるようで、その実、場面ごとに大きな断絶がある。この映画の編集は様々な出来事を忘れたかのように取り繕う。それが主人公の衝動性、身体の不安定さと重なっていくのだ。撮られている被写体の動き(アクション)と映画の構成・編集を動員して、主人公の生理を体感させる作りになっている。思考・身体の倒錯が、映像として現れる。
カナはきっと、「考えるのに疲れてしまった人」なのだと思う。そして、潔癖症なのだと思う。「少子化と貧困で死ぬ。目下の目標は生存である。」と、概ねそういった台詞もカナは吐き捨てるが、そこに諦念とシニシズムの以上の何かを見出すことは困難だ。イデオロギーも何もない。端的に言って、浅慮だ。実際、あれだけハヤシの過去の件に対して、彼のモラルを糾弾する発言・行為を繰り返していながら、(自分が詐欺にも近い)脱毛サロンで働いていることには、何の反省も見えない。あるいは、部屋にいるときはスマホで動画を見ているか、寝ているか、というだけだし。ハヤシやホンダの不義理な行為・発言に倫理的な不快感を感じてはいるように見えるが、「心底どうでもいい」と思っているようにも見える。こうして見ていくと随分図太く見えるが、しかし、異様に神経質な瞬間もいくつかある。夕飯を作ってくれないハヤシがおどけて彼女のお腹を触ることに憤慨する場面に顕著だが、冒頭でデート後に嘔吐する場面もある。他には身近ではない人と話すときにもそのナイーブさが垣間見える。劇中でハヤシやホンダ以外の、距離のある人、身近ではない人らとの間でトラブルを起こすことは少ない。劇中で語られるもので言えば、唯一職場をクビになるときぐらいだろうか。冒頭でナンパしてきた男と口論になる場面も勿論あるが、それは「異様な距離の詰め方をしてくる人」であるので、「距離のある人」ではない。(もっと言うと「関係を崩してはいけない人」だろうか。)職場の同僚やハヤシの親のような人の前でトラブルを起こす瞬間はない。それなりにコミュニケーションも取れているように見えるが、会話の中で宙ぶらりんにされたり、会話の内容に苛立っているようなきらいも見られる。キャンプの場面でも、後輩と職場の外で会話する場面でも、その場を離れる。基本的に赤の他人が何を言っても「あーはいそうですね」みたいな態度を取り、相手に過剰に介入しないように距離を取ろうとする。
こういった感性は—私の見ている作品の中では—西島大介の『アトモスフィア』の主人公:「わたし」にも通ずる。
-「ふざけんな」なんてことを決してわたしが言わないのはあらかじめ全てを赦してやっているからだ。わたしがわたしのために。―
これは『アトモスフィア』劇中で、幾度となく繰り返される、シニシズムの権化のような台詞である。わたしは、世界の杜撰さに、他者のエゴ、その不遜さに幾度も苛立っているが頑なに「ふざけんな」と口にするのを避ける。そして寧ろ自分自身も「ふざけた」流れに身を任せていく。正しく「あーはいそうですね」という態度を取って。
--だからわたしは君を怒らないでいてあげる。君のつまらない冗談を笑ってあげる。君の話を黙って聞いてあげる。君のことを本気で考えたりしない。わたしが「ふざけんな」って君に言わないのは、誰よりもふざけているのはわたしだからだ。--
今作の感想・批評においては岡崎京子との類似を指摘するものがいくつか見られるが、西島大介は岡崎京子の影響を色濃く受けている作家であるので、私の受けた印象も、似た意識感覚を共有しているだろう。私はそれほど両作家について造詣が深い、というわけでもないが、キャラクターが全てを諦観しているポーズを取りながら極めて強いナイーブさ、潔癖症を抱えている点は、やはり共通していると思う。
カナはそのシニシズムの傍らで、身近な人物に対しては自分をプライオリティー高く扱ってもらうことを求める。ハヤシもホンダも生活の中ではやたらとカナの身の回りのケアを行っている。おそらく、そういう人を選んでいる。カナが憤慨したり、ハヤシを過剰に責める場面は「自分を少しでも大事に扱ってくれなかった」瞬間だ。ハヤシの過去を咎める場面では他の場面とは打って変わって正確さ/誠実さを彼に求める。「知らない人だよ」というハヤシの言葉に対して「誰が知らないのか」という主語をちゃんと言わせたりする。過剰に主語や情報を確認するのだ。少し考えれば意図を汲み取れる言葉でも正確さを求める。そして、ハヤシの創作行為を「自己満足の罪滅ぼしだ」とバッサリと切り捨てる。また、衝動的に掃除を始める場面などとは対照的に、憤慨した際は部屋を散らかす。何かを投げて/落として拾わせるくだりが幾度も繰り返される。そして、ハヤシの人生のイニシアチブをしきりに奪おうとするのだ。だから「お前がどうするかは私が決める」といった旨の発言をする。「女性に中絶をさせた」ハヤシの倫理観に対して、不快感を抱いてはいるのだろう。(でないとタバコの灰皿代わりにはしない気がする。)しかし、それほど気にしてもいないのだと思う。(でないと、あの写真を見つけてすぐに糾弾しないのは疑問だ。)実際、それをいざ発露するときに「咎めること」を目的としていない。あくまで(自分の不快感を払拭して)相手を「言いなりにする」ための手段として利用しているだけだ。掻い摘んで言えば「不愉快に思っているし失望もしているけれど、自分の言いなりである限りは特に何もしない。が、言うことを聞かないときの特効薬として使う。不快感を二重にぶつけられるので便利。」みたいなことだ(と私は思う)。
また、更に掻い摘んで言えば「半径5メートル以内の身近な人には過剰にケアを求め、それ以外の人は諦めて距離を置く」みたいな行動・思考の癖がある。カウンセラーとプライベートでの交友を持とうとするのは「身近な人」になって、自分に親身になって欲しいという願望の表出だ。カウンセラーとの会話の中で「他者に対して過剰にこうでなければならないと考えてしまう」思考の癖が読み取れると指摘される。父親に対しての感情から、より詳細に分かる。「父親としては絶対に許さないけれど、一人の人間としては許したい」と。そういった内容だ。つまり、これも「「人間(=身近でない他者)」としてはどうとも思っていないが「父親(=身近な他者)」としては過剰に責任を求めてしまう。」ということなのだと思う。勿論、「身近でない他者」にも思う所はあるのだ。しかし、決して言わない。言おうとしない。また「分かってくれる他者」もあまり好ましく思っていない。焚火での会話でなんとなく分かる。
ハヤシやホンダの過失や苦悩にはホモソーシャル的な抑圧の背景が、カナの無軌道で愚かな行動の数々も身体の問題だけでなくジェンダー/レイシャルなアイデンティティへの抑圧が背景であることも垣間見えたり、様々な社会の構造によって生み出されていることも描かれており社会批評としても優れている。結局、こういった構造の中にあって我々が陥ってしまうのは不誠実・不義理な行動と、思考停止した毎日の中でのイニシアチブの取り合いだ。曖昧に会話し、無感情に働き、無軌道に歩き、呆然とスマホを見て、スクリーンの向こう側に平穏を、憧憬を見出す思考を止める生活。思考に疲れた生活。その傍らで、逆説的に潔癖症が深まっていく。そこで唯一希望になるのは末尾で描かれる「わからなさ」の共有だろうか。それにしてもしんどい映画だった。
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