私の母親は佐賀県東多久町(現多久市)の出身。嫁いできたのは大分県山国町(現中津市)。嫁ぎ先は田舎の酒店。夫は九州電力の社員。姑がいた。夫は変電所勤務なので週三日ほどは社宅住まい。よって、母は酒店と猫の額ほどの畑と田んぼを一人でやった。 姑が亡くなって五十回忌を済ませた時、母は私にこう言った。 「これで私のこの家での役割は終わった」と。それから数年後、両親と子供達と孫で嬉野温泉に行き、その帰り、母の実家に立ち寄った。母は座敷に飾ってある父母(私の祖父母)の遺影に向かって言っ
まず原稿用紙に書こう、というのが私の作文の基本。ワープロソフトには原稿用紙作成機能がついている(はず)。これを使い二百字と四百字の原稿用紙を作成しておき、SNS毎に使い分ける。Xは百四十字だから二百字を使い、Facebookは四百字を使う。 Facebookで延々と書かれている方のものはよほど興味あるものでないと読み疲れる。私の経験から四百字〜六百字が一回に書くのにほどよい字数だと思っている。 もちろん読まれることを前提とせず、自分の備忘録として残す場合もあるから、長い
#READYFOR #クラウドファンディング
上川陽子外相が麻生自民党副総裁に「おばさん」と呼ばれ、呼ばれた本人ではない人たちが怒っている。いや怒って見せている。「人権侵害」だ、と。 誠に生きづらいというより、話しづらい、書きづらい世の中だ。「おい、そこのねえちゃん」というのもアウトらしい。 ならば「おじさん」はいいのか、「おっさん」はいいのか。ジイさんもバアさんもダメか。実にバカバカしいことを話題にしている。あれは麻生流のユーモアであり、表現であり、むしろ、あの真意は上川外相を岸田さんの次の首相の候補にしますよ、
政治家は嫌われる職業である。なぜならば、自分のことばかり話しているからである。どんな会でも自分のことばかりぺちゃくちゃと喋っている人がいる。大概、こういう人は嫌われる。嫌われないにしても好かれない。 政治家は自分のことばかり話さないと目立たない。もっとも喋くりまくるのがアピールする唯一の手段と考えていること自体が間違いなのだが、間違いを間違いと認めないのが、政治家の政治家たるゆえん。 最近は、その機会がないが、以前、団地組合の役員や委員をやっているとき、一番の若手が私だ
二十九歳のとき大病をした。六十九歳のときガンを発症した。最初の大病のときは「短い人生だったな」と悔しい思いがした。しかし古希一歩手前でのことは「なるようになるさ」と開き直った。 七十年生きてくると、世の中に起きる大概のことは体験、あるいは見聞きしているという気になっている。だから驚くことは稀だ。唯一、驚く、いや恐るのは地震だ。こればっかりは経験、体験が生きそうもない。ちょっとの揺れでもオロオロするばかり。 歳をとると丸くなるというのは嘘。丸くなるのではなく、気力が失せる
母の友達が語る母の思い出話。私のことは一言もなかった。ショックだった。いや、私のことが出なかったことではなく、母の夢がこんなに小さなことだったのかということだ。 兄がこの言葉をどう受け止めたか知らないし、確かめようとも思わなかった。兄を追い詰めることになるからだ。 母に直接聞いた話。あるとき、父が実妹と電話をしていたとき、「お前な、二番目こそ大事にしなければならんのだよ」と言っていたというのだ。晩年、母は私に「あんたと兄ちゃんの(財産)の取り分は差をつけるからね」と。そ
母の葬儀が終わり一段落した頃、酒屋同士で仲が良かった方が悔やみに来られた。「お母さんは正博さんと一緒に暮らすことが夢だと言っていたんだよ・・・・」と。正博とは長男、私の長兄。 兄は長男ということもあって厳しく育てられた。父は次男の私を特にかわいがったと母はいう。それ以外、祖父も義祖母も私を溺愛したらしい。もちろん、兄がだからといって邪険にされたというわけではない。母によると、次男のかわいがりとは違っていたということだ。 母はこれを見て、兄のことを不憫に思っていた。何
女の寝言じゃない女の小言。外で会合があるというと、家人は決まってこう言う。「呑み過ぎないでね」と。水ではない、お茶でもない、酒のことだ。 親父とお袋の喧嘩はお袋の「酔っ払うほど呑まないように」という一言が原因だったことが多い。親父の反論はお決まりのもの。「わかっちょる。いちいちうるさいんだよ」と。 結婚する前、恋人同士のころは相手の言葉は天使の響きのようだった。「呑み過ぎないでね」と言われると、「なんてこの女性はやさしいんだ」と胸が熱くなったものだ。が、綾小路きみま
四歳上の実兄がスクラップブックに新聞記事を貼っていた。それに影響されていつの日からか、真似をするようになった。最初は毎日新聞、そのうち読売新聞。毎日、新聞を広げた(読んだわけではない)。 だからだと思うが、政治に関心を持ち始めた。中学校の頃はハッキリと政治家になろうと思っていた。 縁とは不思議である。大学に入り最初の日、私の隣りに座った男T君と仲良くなった。私が政治家になりたいんだ、と話すと、彼が言った。「親父が政治家Aの事務所を手伝っている。紹介してやろうか」と。
一年で千冊読め、いや大学四年間だったか、忘れたが、大学に入るとき、中学校時代の英語のK先生に言われた。あれから半世紀。千冊でなかったにしても百冊、いや低めに見積もって五十冊は読んだであろう。 とすると、五十年として単純計算で二千五百冊は読んでいることになる。雑誌はここに入れていないので五十冊分を読んだというのは謙虚な言い方だろうと思っている。 いや、多くの本を読んだことが大事なことなのではなく、読んだことがどれだけ血肉になっているかということだ。それを判定する基準は
司馬遼太郎さんは、平成八年、一九九六年二月十日に吐血し十二日に亡くなった。前日の九日、「文藝春秋」の巻頭随筆「この国のかたち」の百二十一回分の原稿を書き終えていた。病床に伏せることなく現役で逝った。享年七十二。 私は二十九歳のとき大病をした。そのときから「死」を意識するようになった。三十一でシューベルト、三十三で坂本龍馬、三十五でモーツァルト、四十二でR・ケネディ、五十六でベートーヴェンをそれぞれ意識し、「あぁ、ここまで生きられた」と思った。 同時にそういう偉人たち
とかく年寄りは汚くなる。他人から見られなくなるからだ。よく言えば、周りのことを気にしなくなる。それは良くないことかもしれない。現役のときは周りの目を気にする。そう人は見掛けで判断するということを知っているからだ。 女性に限らずとも、毎日同じスーツでもせめてネクタイやシャツは変えないと、だらしなく見られてしまうかもしれないという恐れがあるからだ。 が現役を引退した途端、己を見るのは古女房。彼女の目を気にしたところで、いまさら好かれたいとも思わない。髭を剃るのは、女が化粧をする
令和六年一月、古希を迎えた。「めでたく」という言葉をつけたかったが、おめでたいのは私の頭。ここはさらっと流した。昭和二十九年一月生まれ。西暦でいうと、一九五四年。敗戦から丸八年が経っていた。 物心ついたのはいつ頃だったろうか。父に連れられて耶馬溪の観光地である羅漢寺や青の洞門によく行った。その頃、傷病兵があちこちにいて、アコーディオンを弾いていた。衝撃的だったのは、下半身の膝から下がない人を見た時だった。 もちろん、戦争は悲惨だとか思ったわけではない。見てはいけないもの
イコライザー。デンゼル・ワシントンの当たり役。我が国でいえば、必殺仕掛人。法で裁けない悪人をこらしめる。警察ドラマの中では決着することができない事件を解決し悪人を断罪する。こういうドラマを見て人々は溜飲を下げる。いわば社会のガス抜きだ。 いわゆる裏金問題。私は有為な政治家をこういうことで失うのはどうか、という思いもあるが、それだけでない、下半身スキャンダルが加われば、今の世の中は完全にアウト。こういう脇が甘い輩は、敵国の格好の餌食だ。餌食になる前に早々にお引き取り願いたい
世襲候補の立候補は禁止すべきだの、女性を一定割合にすべきだの、あたかもこれらの意見、すなわち被選挙権を制限する主張が正論であるかのような雰囲気がある。 新党も既成政党もこうした主張を堂々としている。が、憲法を公職選挙法を読んでもらいたい。現行の公職選挙法で被選挙権を有していないのは、刑法犯他公職選挙法違反の者に限るのであって、憲法四十四条では「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」と謳っているのであって、二世三世の「世襲議員はダメ