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抑圧からの解放、精神の自由を訴える書

心理学者の著者が語る、幼少期の影響

”精神的な死から始まった私の幼少時代”というショッキングなフレーズから始まる本書
社会学者・心理学者として高名な先生で、現代文の教科書や大学入試問題の課題文でも読むことの多かった印象が強いだけに
やや気軽に、教養のクラスの1年生に戻ったきもちで(気持ちだけ)
いい話をきけると前の方に座ったら
心にグサッとくる話をきいてしまったような感覚

抑圧された(家庭)環境で育つと、自分らしくいられず、素直な感情をみとめられないという弊害が現れるとし、その根源には

  • 自意識過剰の他者不在

  • 他意識過剰の自己不在

という状態がある、と解説

観念的な話を提示したあとは、具体的な解決策にトピックが移っていくのか
(はやくそっちの話に行きたいな…)と淡い期待を寄せつつも
目次からして、当面は
心が抑圧された状態で大人を生きるということの悲惨さが、続く模様

問題の源流にある
”家族という閉鎖的な精神空間”
における、家族愛という外面的には理想的な正しさ、に囚われの状態に長く置かれたという話に繋がるだけに

淡々と語られながらも、逃れられない息苦しさが伝わってくるようで
何とも痛々しく

多くの大人と、未来を担う子供たちの心を解放する、という信念のもと
社会への警鐘として書かれた書籍であることが窺える内容が展開されます

抑圧は、どのように発生するか

おそらく、如何に多くのご家庭において、同様の抑圧が発生したかを明らかにすべく、丁寧にご自身の事例が説明されるのですが

立派なことを言う人の隠された真実、という表現で
認めたくない劣等感をかくすべく
立派なことを、とくに家族に説明して、それを家訓のように徹底的に強要すると、抑圧が発生するメカニズムを解説するところまでは

政治家の祖父=>大学教授の父、という著者が育った家庭のスケール感が特別だということを理由に
適当に読み手である自分の心と距離をおいて、自分には関係がないフリを決め込むことは比較的容易なのですが…

家庭的でない人が、自分といることを強要する、という話は
時代からして、なかなか逃れづらい訴求力を持ち
イタイところ突かれたな、という感覚になります
文庫本が出た1995年ですら、モーレツに働くことが美とされていた時代

もちろん一部には、そのような風潮とは一線を画しながら
周りの人との間に望ましい距離感をとり、自分に合った目当てを設けて進む人も少なからずいらっしゃったとはおもいますが
父があまり家庭にいないにもかかわらず、一緒に行動することを求められた経験のある方の方が多かったのかもしれない、とさえ推察できます
(自分が社会にでて激しく仕事に打ち込み、家族と過ごす時間に制約があったなかで、当時の父の想いに素直に共感できる今だから、ある程度冷静に読めたのだとおもいます)

前者は、コンプレックスを認めず(酸っぱいブドウの寓話のように、素直に捉えれば憧れや尊敬の対象にもなり得た他者の実像が不在となり)、社会の通説を引用しつつ自分を守る主張を述べる(いかに自分の仕事がすばらしいかという”甘いレモン”)の不自然さを現す例で
後者は、他人の眼ばかり(外面)を気にして、それほど家庭的ではない自分(ほんとは何がしたいの?何に興味があるの)を省みないという例であると
端的に解説されます

ちょっとずつ、自分の声をきく

ショッキングな内容がつづく「自分づくりの法則」も
どのようにすれば、精神的自由に近づけるか
について
具体的な提案に移ります (/以下は、自分の最近の実践と経験を交えて本で紹介されるアクションの受け止めについて書いていきます)

1つは、違うことをやってみる

これはちょっと意外でしたが、ちょうどビジネスSNSであるLinkedInでアート部という活動の中心にいらっしゃる猪目大輔さんから教わった関心の拡げ方に繋がるところがシンクロして、さっそく私も、自ら足を運んで来なかった開催中の第75回毎日書道展に行き、どのような自分の隠れた欲求に出会えるか試して来ました~

写真NGの、上松一條「寒山拾得」恩地春洋「捨」など、拾う、捨てるの手の伸びやかさに、手を伸ばしたいという自分の心の拡がりを感じ
なるほど、違うことをやってみる、なかなか凄い効果がありそうです^^

写真OKな写真で、つづきをやってみますと

字に隠れた躍動する人の姿が、次第に気になってきました
音楽を感じるように視覚表現を追求したいのかも;飛翔のイメージ。次回作「化身」の心象を想起
ある教室で聞こえてきた小倉百人一首を先生が書いたものだそうで
唄うように歌を聴くように表現できたら素晴らしいだろうという気持ちに気づけました

もう1つは、欲求に耳を傾けてみる
冷たい(ダークな?)自分を認めてあげる
というものです

これについては、ユングが提唱したシャドーを
自分で認めるというプロセスのことだろうとおもわれます

わたしも昨年から徐々に取り組んでいるのですが
ここでは今春から夏にかけ来週8/11(日)迄公演中の
劇団四季「オペラ座の怪人」で
抑圧された心をそのままに愛する箇所につづくシーンを引用してみます

マスカレード♪ 仮面に隠れて
マスカレード♪ 生きてきたこの人生

「オペラ座の怪人」マスカレード♪より

さまざまな演出があるなかで
今回の横浜公演で、どのように演じられているかの特別なところは伏せて
そのあとどうなるか、についてだけ書きますが
そこはファンの方はよくご存知のところ

仮面を追いかけてきた北欧出身の踊り子が
マントをとると、仮面の向こうにいたはずのファントムがいなくなった
というもの

わたしは
このシーンが、抑圧されてきた創造性の魂が
愛と受容にふれて、はじめて自由になった
そういう意味だったら素敵だなとおもいながら鑑賞しました

開幕前のアナウンスでも、立って拍手をする際の配慮についてお願いされていたことから
四季のオペラ座の怪人では、お馴染みの光景なのかもしれませんが
最後に、多くの方が
スタンディングオベーションで拍手を送っている姿に包まれたとき

月の光に導かれて、谷間の百合の花が一斉に咲き始めたのを目の当たりにしたかのような
驚きと感動に包まれ、涙がとまらず立ち上がれませんでした

約40年前までの日本で
多くの人が、家族や身近な小さな組織の抑圧のなかで生きてこざるを得なかったことを思えば
いまも、その抑圧は消えておらず、苦しむ人が多いからこそ、この作品が今なお感動を呼んでいる部分もあるのかもしれません

それでも、この数十年で多くの人が精神の自由に近い状態を獲得し
いま、喜びを分かち合っているのだとすれば
経済的自由より
精神的自由こそ確保されるべき、と
力強く論じられたことが
大きな意味を持ったのではないかと
本の持ちうるインパクトに、本好きとして期待を寄せつつ考えました


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