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『懸想文売り』陸の文〈アニョー・パスカル〉

陸の文(表)


 聞こえなかった。

 なにをいっているのか。
 皆の声に紛れて。

 あれは、高校んとき。
 学校行ったら、珍しく一番乗りで。
 誰もおらへん教室でぼんやりしとったら、がらりと戸が開いて、二番乗りがあんたやった。
 おはよう、てゆうたら、おはよう、が返って来て。
 そのまま席に着くんか思たら、机に鞄をおいたあんたが、私んとこへやって来て。
 なんでか知らんけど、前の席にどっかと腰を下ろした。
「今日は朝練はないん?」
 とたずねれば、
「ない」
 という返事。
 そっからは、あんたによる怒涛のバスケットボ―ルトークやったよな?
 ひくーいお声で。
 一方的な、ぼそぼそトーク。

 実はな、よう分からへんかってん、バスケットボールトーク。
 ついでにいうと、最後のほうは、なんも聞こえてへんかってん。
 途中から教室に人が増えてきて、どんどん周りがうるさくなって。
 あんたのぼそぼそ声は掻き消されてしもてな。
 ちゃんと耳そばだてて、あんたの声を拾おうと努力したらよかってんけど。
 それどころやなかってん、私のほうは。周りの目が気になって気になって。
 だって、あんたは人気もんやねんもん。
 中学生のときから、モテモテのモテ男くん。
 そんなあんたと、教室の隅っこで、二人っきりで話してる、この構図。

 ああ、里香ちゃんがこっちをちらちら見てるぅ。
「なんであの二人が!」って悲鳴を上げながら、胡桃ちゃんを揺さぶってるぅ。
 ああ、ヨネちゃんの背中も、こっちを見てるぅ。

 そんな感じで、私はそわそわしっぱなしで。
 あんたの話なんてなーんも聞いてへんかった。
 もういっぺんいうで?

 なーんも、聞こえてへんかった!

 あんたが私に誰かへの想いの丈を語っとっても、
 あんたが私に世紀の告白をぶちかましとっても、

 なーんも、私の耳には届いてへんかった!

 ほんまはあんとき、あんたの喋りを遮って、
「え? なに? うるそうて聞こえへん!」
 ていいたかってんけど。
 周りが気になり過ぎて、できへんかってん。

 ごめん!
 ごめんな!

 ほんま、今更やけど。
 ほんでも、いっぺん謝っときたかってん。

 ああ、なんか、すっきりしたわ。
 ……ほなな。


壱. 商に就いての答


 もうすぐ春休み。
 けれど、千歳の心はうきうきには程遠く。
「大学かぁ……」
 出るのはため息ばかりなり。
 年明け早々に、目指すのは理系か文系か、分野を決めて提出するようにいわれた。意図はちゃんと伝わった。最終学年目前、そろそろ本腰を入れて勉強しなさい、という遠まわしな尻叩きだと。
 千歳が通っている高校は、所謂進学校。大学に進学せずに就職する人間はごく僅かで、東大京大の合格者数のほうが多いくらい。
 三年生になったら、受験一色になるに違いない。
 でもなあ……。
 千歳の将来はもう決まっている。カメリアを継ぐ。その一択だ。実質、もう継いでいるようなものだけれど。

 舶来屋を盛り立てていくのに、大学進学はアリかナシか?

 このところ、心に浮かぶのは、その問いばかり。
 
 店を継ぐなら、学ぶべきことは山程ある。
 まずは、西洋アンティークの知識。
 それから、バイヤー兼、経営者のノウハウ。アンティークの目利き。
 言葉の習得も不可欠だ。必要なのは欧州言語。英、仏、伊、西、独語――
 受験科目と内容が重なっているのは、歴史と英語だけ。なんというみみっちさ。しかも、がり勉して進学しても、残りすべてをまるっと教えてくれる大学はなく、カメリアのための学びは、結局独学になると分かり切っている。
 受験勉強と大学で、まる五年の無駄遣い。
 諸々の学費で、四、五百万円の無駄遣い。
 そんな時間とお金があったら、自分の将来カメリアのために使いたい。
 
 だが、そんな千歳の希望に待ったをかけたのが、保護者の二人――叔父と母親である。

 ――大学は行っといたほうがいいんじゃない? 大卒じゃないとナメられるときもあるし。後々後悔しないためにも。
 ――行っといたほうがええで。大学でしか得られん経験もあるし、一生もんの人脈を得られることもある。彼氏かってできるかもしれへんやんか。
 
 口を揃えて、そう勧めてきた。

「ったく、こういうときだけ姉弟で意見が一致するってどういうことよ」
 放課後の〈ストレス発散部〉のクラブ室。ぶうぶういいながら千歳がサンドバッグを叩けば、横の壁にもたれて眺めていた璃子がくすくす笑った。
「確かに、彼氏は間に合うとうもんなぁ」
「彼氏の話じゃないわよ。大学の話!」
 千歳は鋭くパンチを繰りだしたが、室内に響いたのはポスポスッという鈍い音。
「行かしたるゆうてはんねんから、行かしてもろたら? 一緒に暮らしてへんぶん、大学の学費くらいは、っちゅう親心やろ」
「親心? 今更?」
 だったら、最初から娘を弟に押し付けてんじゃない! 
 不満を込めて、千歳はサンドバッグをビシビシビシ。
「行きたい学部がないっていったら、とりあえず大学に行ってみて、それからじっくり将来について考えてみたら、なんていうし」
 だーかーらぁ、就職先はもう決まってるんだってば!
 ビシビシビシ!
「ほな、ダブルディグリーがあるとこ狙って、留学するとか。それやったら語学もやれるし、現地の市や店に通ったりできるやん」
 ダブルディグリーとは、日本の大学に籍をおいたまま海外の大学に留学し、あちらで取得した単位を読み替えてもらって、四年で卒業できる制度である、が。
「そんなことしたら、余計お金がかかるじゃない」
「ほんなら、カメリアの商売に役立ちそうな、商科大とか経営学部は?」
「それ、お母さんにもいわれた。マーケティングはどう? って。お店の経営にも役立つし――」

 ――潰しが効くでしょ。

 何気ない言葉だ。たぶん母親は無意識だった。
 けれど、千歳は改めて言葉の意味を辞書で調べて――
 
〈潰しが効く:
 それまでの仕事をやめても、他の仕事ができる可能性がある。〉

 察してしまった。
 舶来屋〈カメリア〉の売り物は、その名のとおり「はるばる海を渡ってきた」欧州由来の時めく品々だ。
 しかし、今どきのドキドキキュンキュンは、海ではなくネット経由でやって来る。
 当然ながら、カメリアの売り上げは、開店当初に比べればぱっとしないわけで――
 
 保護者二人が、千歳に大学進学を勧める真の理由。それは、転職への備え。
 舶来屋が潰れても、大丈夫なように。
 潰しが効くように。

「要するに、二人して舶来屋の行き先を危ぶんでいるってわけよ」
「まあ、なにがあるかわからんご時世やからなぁ」
 コロナとか侵略とか、としみじみ璃子が宣う。
「だからこそ、速やかに手を打たないと!」
 千歳は前に向き直り、再びサンドバッグを叩いた。
 のんびり学生生活なんて送っている場合じゃない。その間にカメリアが潰れたらどうしてくれんの!
「娘より、カメリアに投資してよって話!」
「それ、おばさんにゆうてみた?」
「うん。めっちゃ厭な顔された」
「せやろなぁ」
 いまのところ千歳にできるのは、パンチ力を鍛えることくらいのようである。

弐. アニョー・パスカル


「アニョー!」
 帰宅して店に出た千歳は、客がいないのをよいことに、妙な雄叫びを上げた。
 陳列棚には、ビニール袋に包まれた愛らしい仔羊。
 名前は〈アニョー・パスカル〉。まんまフランス語で〈復活祭の仔羊〉という意味だ。
 十二月のシュトレン、一月のガレット・デ・ロワ――イエス・キリストの誕生を待つパン、誕生を祝うケーキと来て、三月のアニョー・パスカルは、十字架にかけられたキリストが三日後に復活したことをお祝いする、フランスの焼き菓子である。
 日本では復活祭のお菓子といえば、卵型のチョコレート、イースターエッグが定番で、アニョー・パスカルなんて聞いたことがない人も多いはず。なぜなら、アニョー・パスカルは地方菓子だからだ。アルザス地方の伝統菓子なのである。
 最近、一部の洋菓子店でぽつぽつ見かけるようになったものの、まだまだ知名度は低い。
 でも、千歳はこのアニョーが大好き。
 なにせ、可愛らしい。
 リボンを巻いて香箱座りしている仔羊さんを前にすると、頬が緩んでしょうがない。
「〈美馬〉さんとこのアニョーちゃんは、アーモンドがめっちゃ効いててウマウマよ~」
 ガレット・デ・ロワと同じ仕入先の洋菓子店である。
「可愛い上に美味しいって、最っ高!」
 ガレット・デ・ロワはホール売りが基本で、お値段が少々張ることもあり、予約のみの販売だったが、アニョー・パスカルは千円台。「カワイイ!」と叫びつつ衝動買いも可能な価格であるため、一日十個限定で普通に販売している。
 予想通り、その日に売り切れる人気ぶりだ。
「うふふ、今日は何時に売り切れるかなぁ」
 覗き込んでいると、コツン、とヒールの音がして、ふわりと甘い香りがした。
「神の仔羊……」
 呟きながら、千歳の隣に若い女性が立つ。
 目尻にある泣き黒子が印象的な、ボブカットの女性である。初めて見るお客さんだ。
「あっ、いらっしゃいませ」
 千歳が半身を捻って迎えると、泣きボクロさんは小さくうなずき返し、視線をアニョー・パスカルに戻した。
「この子を見たら、昔受けたミサを思いだしたわ」
「ミサ?」
「あるのよ。信者が唱える定型句の中に、〈神の仔羊〉」

  神の仔羊
  世の罪を除きたもう主よ、我らに平安を与えたまえ。

 焼き菓子を見つめたまま、泣きボクロさんは祈りの文句らしきものを呟き、千歳に目を向けた。
「神の仔羊の意味、わかる?」
「えっと、わかりません」
「キリストのことよ。キリストはね、この世の罪を全部背負って十字架にかけられた尊い犠牲、生贄なの。だから彼は、神様へ捧げられた最後の生贄だって考えられていて――」
「でもなんで仔羊?」
「ユダヤ教では、復活祭のときに生贄の仔羊を食べていたんですって」
 時代が下って生きた仔羊がお菓子になって、アニョー・パスカル。
「へええ!」
 物知りぃ! と千歳は感心したが、泣きボクロさんは苦笑気味に、
「大学がね、カトリック校だったの。潰れちゃったけどね」
 どきりとした。
 キリスト教的なものとは、すなわち西洋的なもの。カトリック校が潰れたことは、日本の西洋への関心が薄れてきていることの証左のように思えたから。
「それはそうと、このアニョー、一つ貰えるかしら」
「ありがとうございます!」
 千歳はアニョーを持ち上げ、「こちらでお会計をお願いします」と客をレジカウンターにいざなった。
「あ、それと、恋文のほうもお願いしたいんだけれど」
 これ代筆してもらえるかしら、と泣きボクロさんが鞄の中から白い封筒を取りだす。初めてなのに、カメリアの懸想文商いのことをご存じらしい。
「かしこまりました」
 では、預かり証を書きますのであちらで――とやり取りしているうちに、ぽろりぽろりとお客さんが入って来て。
 そこそこ混んでいる店内に、ほっと胸を撫で下ろした千歳だった。


参. 刑事、来たる


「あの、すみません」
「あ、はい! いらっしゃい――」
 せっせと在庫の確認をしていた千歳は、若い男の声に慌ててふり向いた。
 背広姿の、黒縁眼鏡の男性だ。
 七三分けの前髪が面白すぎる。
 失礼な感想を抱きつつ千歳が見上げていると、こんにちは、と男が挨拶した。
「すみません、お仕事中に」
「あっ、いえいえ」
「実は私、こういう者で――」
 おもむろに男が背広のポケットから出したのは、バッチつきの身分証明書である。
「刑事さん……?」
「県警の生活安全課の者です」
 ふおおおぉ、ドラマみたい!
 桜田門マークに目が釘付けの千歳に、ちょっとお時間よろしいですか、と男は柔らかな声で切りだした。
「実は、ある事件の捜査をしておりまして。容疑者に繋がるかもしれない人間が、この店で買い物をしたかもしれないのです」
「……はあ」
「こちらの女性に見覚えはありませんか」
 身分証を仕舞って、刑事が一枚の写真をジャケットの内ポケットから出す。
 刑事の仕草を目で追いつつ、千歳の頭は別のことで一杯。

 この刑事さん、一人なのかな。
 相棒は?
 刑事ドラマで、独りで聞き込みに行った主人公が、後でめっちゃ叱られてなかったっけ?
 小首をかしげていると、刑事が写真を揺らした。
「どうですか?」
「あ、はいはい」 
 ナルホド。いわゆるスタンドプレーというやつね!
 わくわくしながら千歳は写真を覗き込む。
 写っていたのは、二十代前半くらいの若い女性で。
「あ、この泣き黒子――」
 アニョー・パスカルを買っていったお姉さん。
「見覚えが?」
「先週、お菓子を買っていかれたお客様です」
「彼女はそのとき、お菓子と一緒になにかを頼みませんでしたか?」
「それは……」
 返しつつ、千歳は内心で訝しんだ。
 この人、あのお姉さんがアニョーに懸想文を付けたことを知っているみたい。
 質問の形を取ってはいるけれど、警察はすでに、諸々つかんでいるのかも。
 だって、五里霧中の状態だったら、具体的に買った品とか、店を訪れた時間とか、来たときの服装や様子なんかを、まずは知りたがるはずよね?
 それをすっ飛ばして「一緒になにかを」ということは。 
「はい、懸想文をご注文いただきました」
 千歳は顎を引きつつうなずく。予想通りというか、刑事の男は、懸想文という古めかしい言葉を聞いても、眉一つ動かさなかった。
「聞いたところでは、こちらのお店では、ラブレターの代筆をなさっているとか」
 やっぱり、調査済みらしい。
「それは、どのように書かれるのですか」
「そうですね、お客様のお気持ちを伺って、こちらが文章を作成することもありますし、お客様が持ち込まれた原稿を、そのまま代筆することもあります」
 持ち込みのお客さんは悪筆であることが多いのだが、そこは端折っても構わないだろう。
「彼女の場合は?」
「原稿をお預かりして、そのまま代筆いたしました」
「その原稿は?」
「出来上がった懸想文と一緒に、返送しました」
「そうですか」
 刑事の男が思案顔で顎をさする。
「……ひょっとして、そのときの内容を覚えておられる、なんてことは?」
「ないですよ」
 千歳はきっぱりと否定した。
「覚えていても、書き終わったら忘れるのが懸想文売りの流儀ですので」
 以前、伊織がいっていた言葉をなぞりつつ、千歳は胸を張る。
 懸想文はお客様の大事な秘め事。警察だからといってダラダラと漏らしていたら、懸想文売り失格なのだ。
「これは、一本取られたな」
 刑事の男がぷっと吹きだした。
「若いのに、お嬢さんはしっかりした商売人らしい」
 あ、なんか、馬鹿にされたかな?
 千歳はむっと唇を尖らせたが、刑事の男はありがとうございましたと礼をいうと、あっさり店から立ち去った。

肆. 千歳、推理する


「こういうことがあると、俄然、懸想文の内容が気になって来るよね!」

 夕食の後、ソファの上でまったり寛ぎタイム。
 千歳は昼間のことを思いつくままべらべらと話して、興奮気味に伊織を見た。
 しかし、隣に座った伊織は千歳の髪を弄びながら面倒臭げに、
「つったって、あれだろ? なにを喋っていたか聞こえなかった、ってやつだろ? 別に大した内容じゃねぇじゃねぇか」
「まあね、ストレートに取れば」

 ――あのとき、なにか告ったりしてなかったよね? 
 もしそうだったらごめん、本当に聞こえてなかった。
 だから、もう一度、私に伝えて?

「っていうおねだりの懸想文のように見えるよね」
「いや、普通に考えてそうだろ。告られてたら色よい返事をしたいけど、されてねぇのに思わせぶりに返したら、イタイ結果になっちまう。だから文でワンクッションおいた感じだろう」
「でもねでもね」
 相手の男子がちょっと病んでる系だったとしたら?
 千歳は伊織をふり返る。
「ぼそぼそと、彼女にとってはちょーっと耳を塞ぎたくなるような話をしたとしたら?」
「耳を塞ぎたくなるって、どんな話だよ」
「例えば……僕は罪を犯してしまったんだ、とか」
 
 ――バイトがあるっていわれて行ってみたら、闇バイトだったんだ。でも逃げられなくて。結局詐欺の片棒を担がされてしまったんだ……!

「聞き手としては、巻き込まれたくない。聞かなかったことにしたいよね?」
 しかし、彼女は悩んだ挙句〈聞かなかった〉ではなく、〈聞こえなかった〉ことにすることにした。
 一計を案じ、告白を促すような感じの懸想文にして。
 しかし、そのココロは、

 だから、私はあなたの罪を知らないし、あなたの罪を他に漏らすこともありません!

「でも、相手の男子は病んでるから、彼女のココロが信じられないわけよ」
 疑心暗鬼に陥り、彼女を害そうと企てる。
 一方、不穏な空気を察した彼女は、いち早く雲隠れ。
「刑事さんはいわなかったけど、きっと泣きボクロさんは失踪中で、警察が捜してて。だから彼女について、色々と調べてるんだよ」
 実際のところは雲隠れ中ではなく、すでに病んでる男子の毒牙に掛かってしまっている可能性も――
 
「ね? ありそうじゃない?」
 千歳がにっこりしながら同意を求めると、
「馬鹿馬鹿しい」
 伊織は苦い顔。だが「あり得ない」と頭ごなしに否定はしなかった。
 だから千歳はもうちょっと押してみた。
「この仮説だとね、懸想文の内容を知っている売り子の女の子も危ないの」
「はあ?」
「文面の本当の意味に気付いてしまったかもしれないと、病んでるクンに狙われて」
「阿呆!」
 べしりと伊織が千歳の頭を引っ叩いた。
「いたっ!」
「怖いことをいうんじゃねぇよ!」
 がみがみいいつつ立ち上がると、自室から一枚の紙を取ってきて、千歳の鼻先に突き付ける。
「ほら、よく見ろ。これが返事だ」
「返事ぃ?」
「昨日、お前がいないときに代筆を頼まれたんだよ」
 ええっ! と驚きながら、千歳は紙をひったくった。
 そこには確かに、文字らしきものが。
「うっ、汚すぎて読めない」
「裏に解読したものがある」
 裏を向けると、伊織の美文字が並んでいた。

 ――そして、文を読む――


陸の文(裏)


 朝の教室で、俺がなにをいったか?
 教えてあげよう。

 お前、よくバスケットボール部の練習を見学してただろ?
 俺には、なにがそんなにいいのかさっぱり解らなくて。
 見に行ったんだ。お前がいない日を狙って。バスケ部の練習を。

 体育館の二階の、狭い通路。
 俺はスケッチをしているふりをして、バスケットゴールの斜め上からコートを見下ろし、練習を見学した。
 そして、見事にハマってしまった。
 ゴールから零れ落ちたボールに、我先に手を伸ばす男子の必死の形相に。

 気がつけば、彫刻刀を手にしていた。
 彫って、彫って、彫りまくって。

「もうちょっとで仕上がんねん。
 出来上がったら、お前の名前を入れたいねん。
 お前がバスケを見てへんかったら、俺も見にいってへん。
 作品が生まれることもあらへんかった。
 せやから、あれはお前と俺の共同作品や。
 お前は、作品のどこかに、サインを入れる権利があるんやで」

 これが、あのとき喋っていたこと。
 うん。中二並み。
 陶酔が激しすぎて、あイタたたた。
 お前の耳に、「バスケ」しか届いていなくて、本当によかった。

 けど、あれのお蔭で、いまも、そこそこ食えている。
 なんか、《叫び》のようだと、溺れる者の藁をもつかまんとする必死さと恐怖が、克明に刻まれた芸術品だと、誤解されているけれど。

 実際は、青春が生みだしたイタイ代物。

 真実を知るのはお前だけでいい。
 いまも、そう思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「えー、面白くない……」
 文字通り、彼の話が喧噪で聞こえなかっただけって。
 読み終えて、文句たらたらの千歳である。
「現実なんて、そんなもんだ」
「でも、この返事、おかしくない?」
「どこが?」
「ほら、こことか」
 高校生的感覚で、妙に思える部分を指摘してみたが、伊織に「学校によってはいうんじゃねぇか?」とあっさり流されてしまう。
「とにかく、この懸想文は、おまえが考えているような不穏なもんじゃねぇよ」
 下らねぇこと考えてねぇでさっさと風呂に入ってこい! と伊織に尻を叩かれ、しぶしぶソファから腰を上げ、自室に戻った千歳だった。


伍. ムンクさんの《叫び》



「そういえば、知ってる? ムンク、捕まったんやって」
「は? なんやそれ」
「同じマンションに住む女性が、通路から落ちたらしいねんけど、自殺やないらしくて――」
「怪しい点があったんか」
「自分の意思で飛び降りた場合と、微妙に打ち所が違ったとかで」
「そんなん、不意の事故でもあり得ることやん。なんでムンクが突き落としたことになってんねん」
「昔、ムンクの住んでたマンションから、似たような感じで落ちて亡くなった男の子がおったんやって。いまはもうない、海のほうにあった団地で。そんときは事故で片付けられたらしいねんけど」
「昔って、いついな」
「小学生のとき」
「って、そんなに前のこと引っ張りだされてもなあ」

 静かな店内に似つかわしくない、穏やかならぬ話題に、商品の補充をしていた千歳は驚いてふり返った。
 本日は雨である。今日だけではなく、一昨日から、しとしとしとしと降っている。春の長雨だ。
 お天気が悪いと、土日に関わらず客足は遠退く。舶来屋〈カメリア〉の店内は、閑古鳥が鳴く以外、途中まで深閑としていたのだが。
「大きな仕事が一つ終わったのぉ!」
 モネの青いスイレン柄の傘を差しながら、リリーさんがうきうきとやって来て。
「ちわーっす……って、あれっ、リリー?」
 アクセサリーの納品に来た〈蓮華〉さんが、リリーさんに捕まって。
 気付けば二人は奥のテーブルに落ち着いて、賑やかにダベリング。
 リリーさん、絶対今日狙って来たよね。
 雨ニモマケズ……、その姿勢、見習いたい。
 千歳はお邪魔虫にならないように気配を消していたのだが、話題が少々怪しくなってきた。 
「まあ、ムンクの作品は、怪しさの塊やからなあ」
 蓮華さんが眉間に皺を寄せ腕を組む。
 ムンクとはなんぞやと聞くのが先か、剣呑な話題をお店でするなと注意するのが先か。
 千歳が逡巡していると、
「おまえら、いい加減にしろよ」
 ぴしゃりと伊織が、二人の会話に割って入った。先程から二人の隣で静かに懸想文の清書をしていたが、とうとう我慢ならなくなったらしい。
「人の店で妙な話をすんじゃねぇよ」
「あ、ごめんごめん」
 千歳は、いまがチャンスとばかりにテーブルに近付いた。
「ムンクさんって、誰ですか?」
 まさか「ひょえ~」の画家のムンクじゃないですよね? と頬に手を当てながら聞けば、
「ムンクの《叫び》のあれは、叫んでるんやないで。自然から聞こえてきた果てしない叫びに、耳をふさいでんねん」
 美大出身者らしく蓮華さんが教えてくれる。
「いまゆうてた『ムンク』は、俺の美大の一つ上の先輩で」
「私の一つ下の後輩のあだ名」
 二歳違いの二人がいう。つまりムンクとは、同じ美大の出身者のことらしい。
「ムンクさんは変な先輩でなぁ」
 思いだすように蓮華さんがいった。
「専攻は彫刻で、光雲か! ちゅうくらいものごっつい腕前やねんけど……。作品がどれもこれも、わあああぁ! て叫んでるように、大口開けて、目ぇ血走らせてて。乱れた呼吸を感じるっちゅうか、過呼吸っちゅうか、とにかくこっちまで息苦しくなってくるような人間の上半身ばっかりなんや。せやからムンク」
 ん?
 ということはやはり、皆さんムンクのあの絵を、耳をふさぎではなく、叫んでいると認識しているのでは?
 千歳が首を捻っていると、
「ムンクくんが彫る人間ってなぁ」
 リリーさんが厭そうに続けた。
「どれもこれも、必死の形相してはんねん。もっと酸素を! て、溺れた人間が水面下から空気をつかみ取ろうとするみたいに、ぎょろ目で上を見つめながら腕を伸ばしてて……」
「……藁をもつかまんとする必死さ?」

 なにやら、既視感というか既読感のようなものを覚えて、千歳が聞けば、二人が揃ってうなずいた。
「せやせや、そんな感じ」
「本人は、虫も殺せんくらい臆病やのに、なんであんな怖い顔彫れるんやろな」
「Gが出たとき教室中逃げまわって、しまいに泡拭いてひっくり返ったって、有名やったな」
 リリーさんがくすくす笑って、テーブルに頬杖を突く。
「作品見て、プロファイラーかなにかが、『こいつや!』て早とちりしたのかもね……」
「あり得るな」
「結局彼、釈放されたそうやけど。亡くなった女性の部屋から遺書がみつかったらしくて」
「なんや、そうやったんか」
 脅かすなや、と蓮華さんが大げさな感じに胸を撫で下ろす。
「せやけど、どっから聞いてきたんな、おまえ、そんな話」
「え? 江口くん」
「江口? って、途中で辞めたあのチャラ男先輩? お前、友達やったんか」
「いや、だって同じイラスト科の後輩やもん」
「あいつはやめとけや」
「せやから、ちゃうって」
「……だ、か、ら。うるせーっつってんだろうが」
 横でぐるると伊織が唸る。
 雨の日の〈カメリア〉の、珍しくもない光景である。


 

陸. 本物そっくりのアニョー



「あ、そうそう、江口くんといえばさ」

 思いだしたふうに、リリーさんが千歳をふり返った。
「アニョー・パスカルについて聞きにくるかもしれへんから、そんときは相手したってな」
「は? アニョー?」
 あまりの脈絡のなさに、千歳は目をぱちくり。どこをどうしたら、リリーさんの友達と仔羊が結びつくのか。
「それが、この間突然、江口くんがウチに泊りに来てな」
「え」
 傍らで、ぎょっと目をむく蓮華さん。
 リリーさんは隣の様子に気がつかず、
「ノンアルと間違えてビール飲んでしもた! 車運転できへん、終電逃した、二日徹夜で身体伸ばして寝たいけど、ホテルに泊まる金もあらへん! せやから泊めてゆうて、真夜中に。通路で寝袋やったら泊めたるゆうたら、坂上ってきたんやで」
 あほやろ? とけらけら笑っている。
「マジか……」
 天井を仰いで呻く蓮華さん。お気の毒に。
 うん、ノンアルと間違えたなんて、絶対嘘だよね。
「おまえ、なにしてんねん……」
「え? 私? その日は急に入った仕事にかかりっきりで。徹夜よ、徹夜。朝方トイレに行ったら、廊下で江口くんが寝とって、メッチャびっくりしたわ」
「忘れとったんかいな」
「そう。完全に頭から抜けとった。スッコーンって」
「……策を弄した甲斐なしだな」
 くくっと伊織が喉を鳴らしながら笑う。
「それで? なんでその江口さんから、アニョーに繋がるんだ?」
「あ、そうそう、そんときにな。朝食代わりにアニョー・パスカルを出したんよ」
「スッコーンとちゃうんかいな」
「アニョーしかあらへんかってんて」
 蓮華さんのツッコミに律儀に応じて、リリーさんが話を戻す。
「ほしたら、江口くんがアニョーを見て大騒ぎしたんよ」

 ――これ! ムンクの部屋にあったやつ!

「……江口先輩って、ムンクと仲良かったんか?」
 訝しげに蓮華さんが聞く。
「いや、ムンクをしょっぴきに行ったときに見たらしいわ」
「しょっぴく?」
「江口くん、警察官やねん」

 とある事件の容疑者の名前と経歴を見て、かつて通った大学の同級生だと分かっていた江口警官は、緊張しつつ容疑者宅に向かった。

「せやけど、家に踏み込んでみてびっくり。家中、木彫りの羊で溢れ返っとって、足の踏み場もなかったんやて」
 
 ――なんやこの羊は!
 ――俺の新作《神の仔羊》や。可愛いやろ。

 小馬鹿にしたように笑うムンク。
 江口警官は、学生のときに見たムンクの気持ち悪い作品よりも羊のほうがなんぼかましや、と思ったそうである。

「ほしたら私の家で、そっくりの羊の頭が出てきたんで、仰天したわけよ」
 
 ――これはケーキか? なんていうお菓子や? 

「せやから、教えてあげたんよ。アニョー・パスカルっていう、季節菓子やって。カメリアで買うたんやって」
「だからって、ウチにわざわざ聞きに来るほどじゃないですよね?」
「うん。けど一応な? いきなり警察が来たら慌てるやん」
 にぱっと笑って、そろそろ帰るわ、とリリーさんが鞄に手を伸ばす。当然のように蓮華さんも腰を浮かせ、あっさり二人は帰っていった。
「あっ! 蓮華さんにいうの忘れてた!」
 直後に注文を思いだした千歳は、慌てて後を追う。幸いなことに、まだ二人はエントランスに佇んでいた。
 声を掛けようとしたそのとき、リリーさんが思わせぶりにいうのが聞こえた。
「木彫りが先か、アニョーが先か」
 なんやそれ、と蓮華さん。
「アニョーを知らん人間からしたら、ムンクの家に散らばってたんは、単なる木彫りの羊やけどな。お菓子のアニョー・パスカルを知っとる人間からしたら……」
「……どっから見てもケーキにしか見えへん、木彫りのケーキか。目に浮かぶようやな。食べ終える前に、ショリショリ彫りだすムンクの姿が」
「けど、なんで大量に彫ったんやと思う?」
 神の仔羊ちゅうたら、生贄やん。
 不気味やわ、とリリーさんが二の腕をごしごし擦る。
「なんや、おまえ、怖いんか?」
 蓮華さんが、不安を吹き飛ばすみたいに、カカカと笑った。
「よっしゃ。ほんならいまからお前んちで飲むか!」
「へ?」
 リリーさんが顔を上げ、きょとんと見返す。
「酔い潰れたら泊めてくれるんやろ?」
「あんたも寝袋で寝たいんか?」
「せや。お前も一緒に同衾するか?」
「狭っ! てか、同衾ってなんか響きがヤラシイわ」
「あははははは」
 ばさりと傘を開いて、二人が雨の中に出ていく。
 千歳は色んな意味でドギマギして、結局声を掛けられなかった。


漆. ちとが帰ってこねぇ


 遅ぇな。
 伊織は壁の時計を見て、眉根を寄せた。
 千歳がまだ帰ってこない……

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